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養母の凄い人生

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  高2の学校祭が終わった秋のことでした。家に帰ると母が「男の人から手紙が来ているよ。仏壇に上げてあるから心にやましい事が無かったらおばぁちゃんに誓ってから読みなさい」と言うのです、差出人を見ると市内の男子校の学校祭で案内をしてくれた男の子でした。母に事情を話して中身を読んでいるうちに心臓がドキドキしてきました、そんな私の様子を不審に思った母が手紙を見せなさいと言ったので手渡すとそれを少し読んで顔色を変えて怒りだしました。正直いってその内容には当の私もびっくりで学校祭で会ったのが初対面にもかかわらず、「お前」とか「一目惚れした」「俺の女になって」などと言う言葉が羅列されているのです。当然のことながらひどく叱られそれからの文通はもちろんのこと彼に会うことは禁止されました。今考えると娘に来た始めてのラブレターに母の嬉しさや不安の表れが仏壇にお供えしてご先祖様に無事、年頃になった事を報告したのでしょう。きっと仏壇を気にしながら私の帰宅を今か今かと待ちわびていたことでしょう。
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 自分の身体のことで頭がいっぱいだった母ですが、ある日私が度々痴漢に遭っている事を話すと「それはアンタがボーッとした顔をして歩いているからなの、背筋をぴんとしてキビキビと歩きなさい、スキだらけだから変な男が寄ってくるんだ、男好きのするタイプなんだからこれから気を付けるんだね」と、その時は普通に聞いていたのですが後になってあのような言い方は素人は絶対にしないと思います。通学電車の停留所に行く途中の橋に近づくとその痴漢は出てきます、制服で素性は分かっていたのですが、市内の私立高校付属の中学生でした。いつも待ち伏せをしているらしく何処からともなく出てきて私の胸を揉むように触ってサーッと逃げて行くのです。手加減も無くその痛さにかなり辛い思いをしました。その道を通って橋を渡らなければ電車に乗る事が出来ないので毎日が泣きたい思いでしたが間もなく定期代が少々高くつくのですが母が豊平方面から電車に乗れるようにしてくれましたので本当に感謝しました。今の時代でしたら迷惑防止条例ができており相手の学校まで判っているのですからそのままにはしておかないと思うのですが女子の立場が弱かったのでしょうか、痴漢に遭ったぐらいでは警察に届けたり相手の学校に訴えることなど誰もしませんでした。
 母は本当に父の事が好きだったのだと思います。父が帰宅すると学校給食の手伝いに来ていた奥さんたちに嫉妬したふりをして「女の匂いがする」と言ってカバンを受け取ると背広に鼻を押し付けて甘えるのでそれを見ている私たち姉妹はよく母を冷やかしたものです。あの時代に子供たちの前であのようにイチャツク親も珍しいと思います。春から秋にかけては朝起きると二人で猫の額と言っていた狭い10坪ほどの庭に出て草木の芽が出たとかいつ頃になったら花が咲くとか言いながら朝食前に草を取ったりして畑で一仕事するのが日課でした。
そんな平和な日々が3年ほど続いたでしょうか、母の体調は少しずつ弱っていきあれほど嫌がっていたのですが、ついに手術する覚悟をしたようです。子宮筋腫の摘出をこれ以上延ばせなくなったのです。私が高2になって間もなく母は札幌医大で手術をする事になりました。家族にとって手術をするということは大変恐ろしい事でした。私は姉ともしこのまま母が家に帰ってこれなくなったらどうしようと毎日話し合いました。姉は最初に学校推薦で働いた学校近くの市場の中にある食料品店の店員をしておりました、その頃私がアルバイトをしたくて姉と一緒に働かせてもらったのですが、その職場を見てがっかりしたのです。まさか母があんなにも苦労をして中学校から一貫して私立の女子高に通わせ習い物もさまざまさせてそれが市場の中の食品店の店員?と子供ながら不条理を感じずにはいられなかったのです。姉の成績が悪くて他に就職できなかったわけではありません。そんな思いを抱いている私に姉は気づいていました。一緒にアルバイトに通った時に電車賃が無く3キロほどの距離を二人で歩いた事もありました、夏休みの暑い日でしたが小さい頃に母から聞いたおばあちゃんと小樽から札幌まで歩いた話を思い出し汗を拭きながら黙々と歩きました。やはり姉も今の職場は嫌だったのでしょう、事務の仕事を探しをしていると言っていたのですが間もなく姉はそこを辞め、亡くなった兄が働いていた家の近くに九州に本社のあるゴム製品の製造会社の事務員の仕事が決まり私たちは安心したのも束の間でしたが母の手術がきまった時には今までの職場と違って通勤時間が短いしお給料も高いしまた近所なので何かにつけて良いことずくめで本当に良かったと思いました。しかし母が入院となると私たちの不安は募るばかりでした。
 水汲みと言うとよくテレビで見るアフリカの乾燥地帯を想像しますが、昭和30年頃わが家はまだ手押しポンプで地下水を汲み上げていました、水道管は近くまで引き込まれていたのが隣り近所もまだ半分ぐらいがポンプでした。我が家は工事費がないのと水が出ていたので不便な手押しポンプで我慢していたのでした。それが夏になると泥の混じった茶色い水がチョロチョロとしか出なくなり仕方がないので隣の金物屋さんのポンプから貰い水をする事になりました。やがて冬になりお隣との境には雪が積もり60センチ幅くらいの路地を毎日20リッターほどの水バケツを持って何回か往復するものですから雪が踏みしめられて硬くなりやがて氷のデコボコの通路となり滑って転ばぬように重いバケツを運んでいました。姉は学校が市内の遠くだったので帰えりが遅く、夕飯の仕度に間に合わないので私ひとりでやらねばなりませんでした、寒くて重たくて冷たくて毎日が泣きたい思いでした。そんな繰り返しをしていたある日気をつけていたのですがとうとう足を滑らせて水が18リッターほど入ったバケツもろとも転んでしまったのです。冬の氷点下の日に頭から水をかぶり尾骶骨を嫌というほど氷に打ちつけ動けなくなってしまいしばらくして家に入ったのですが内風呂がありませんでしたのでストーブにしがみ付かんばかりに冷え切った身体を暖めましたが冷え切っていたので震えが止まりません、少しでも身体を動かすと腰から背中に激痛が脳天まで走るのですがこんな時の母は甘える事を許しませんでした「人間は気の持ち様」だと言って寝ている事は許されず夕食の手伝いをさせられました。こんなときの母は厳しかったのですが今の私はそれで良かったと思います。昔の人は出血もしていないこれくらいのことでは病院なんて行かせて貰えませんでした。水道は私が高校卒業した昭和35年まで設置できず水が出なくなると近所から貰い水をしていました。
その女性客は母の前で急にゴロリと横になり着物の裾をパッパツと直し「胃が痛くなったから寝かせてもらいますょ!」としばらく横になってからまた来るので約束の日に貸した金を払うようにきつく言って帰っていきました。そんな時の母は今にも泣きそうな顔で「最初から分かっていたことだけどお父さんの月給は決まっているし借金払いなんか出来ないね」と言うのです。その言葉は私には「独りのときはどうにかなったのに」と言わんばかりでした。その約束の日が近づくと姉と二人で電話をしてくるように言われ少し遠くの公衆電話のある雑貨店へ行きました。当然私は姉が電話をするのかと思っていたのですが雑貨店に着くと私に借金の言い訳の電話をするように言うのです。それまで一度も電話など触った事もなかったのにましてや借金の支払いを延ばしてもらう為の言い訳を中1の子供にさせるなんて心臓が口から飛び出しそうなくらいドキドキして顔はポッポとほてって大変な思いをしました。姉と私は5才違いで学年は3年上でした高校1年生だった姉は思春期真っ只中でしたので自分が電話をするのが嫌で私に押し付けたのでした。「今日は都合が悪いのでいついつお持ちしますのでそれまで待って下さいと母が申しておりました」とこれだけ言うのにすっかりあがってしまいとてつもない大きな声を出したらしく終わってから姉に大きな声だったので店中に聞こえて恥ずかしかったと言うのです。自分は何もしなかったくせに嫌なことはいつも私に押し付ける姉でした。
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