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養母の凄い人生

カテゴリー「母」の記事一覧
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 トキコは同僚や近所の人たちに好かれたようで町内の女子野球チームに入ったり、友人と茶道、生け花をはじめ書や謡曲まで習ったというのだから、当時は女郎という言葉で蔑まれていたはずの彼女なのに何と活発に青春を謳歌したそうです。苦界に身を沈めた分だけ自分を高めようと何にでもチャレンジしたのでしょう。
 昭和13年、遊女仲間の知人から事情があって結婚できない男との間に女の子を出産したのですが育てられずに困っていることを聞かされてその親子の事がかわいそうで毎日眠れないくらいに同情していました。自分は子供の産めない身体だということを知っていたトキコは何日も悩んだ末祖母にその女の子を養女にしたいと相談しましたが祖母は年で病弱なために猛反対していました。しかし言い出したら引かないトキコについに根負けして、自分も育児に協力しようと言う事になり、まだ出生届もしていなかった女の子をついに養女としたのです。始めは猛反対していた祖母は目に入れても痛くないほどの可愛がり様でいつも自分の懐に入れていたそうです。
 この女の子は後々には私の姉にあたるのですが、母は生涯私たちには自分が産んだ子として隠し通しましたが私が社会人になって友人が出来、その人のお母さんが我が家の事情に大変詳しく、私の姉が養女になった経緯をよく知っていたので驚きました。
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 また親子二人の食うや食わずの生活が始まりました。しかし貧乏も限界にきていることはトキコにも分かりました。函館の姉妹たちにも何度か手紙を書いてお金の工面を頼んだのですがだめでした。そして祖母が病気で倒れたのがきっかけでトキコにある決心をさせました。それは「これからのお母ちゃんの面倒は私が見る誰の世話にもならない」ということです。あの遊郭の女の人達が言っていた「お金が稼げる」「美味しいものが食べられる」という言葉を思い出していました。祖母に楽をさせてやりたい一心でした。そしてトキコ一人で数日前に訪れた白石遊郭の大門を自らくぐったのです。もちろんその遊郭では祖母を呼んでトキコの決心が固いことを確認して働くことを決め、前金をもらって祖母は帰っていきました。
 トキコが働いてしばらくして店の近くに祖母のために一軒家を借り、人並みの生活ができたそうです。そんなゆとりが出来るまでは1年ほどかかったそうですが、私には何でも打ち明けてくれた彼女も女郎になって初めての体験やお商売に慣れるまでのことはさすがに言いませんでした。淡い初恋程度しか知らないトキコにとって遊女としての日々は地獄に居るようだったと思いますが歯をくいしばって老いた祖母の為に耐えたにちがいありません。今も昔も世の中には遊ぶ金欲しさとか、男に貢ぐために風俗で働く若い子がおりますがどんな神経なのかと思います。そのうえ自分の生んだ子供を虐待したり、育児放棄して死なせたり、そんなニュースを見ると自分の母は仏様のような人だったと思うのです。

 祖母一人の稼ぎしかない生活は、切り詰めても長くは続きませんでした。ある日、祖母はトキコを白石と言う所の遊郭に連れて行き行きました。トキコは立派な建物で部屋が沢山ある大きなお屋敷だと感じ、そこで自分は働くのだと、最初はお手伝いさんが自分の仕事かと思っていた所に着物をだらしなく着た痩せた顔色の悪い若い女が現れ「あら!可愛い娘ね」「ここはネ、お金がいっぱい稼げるんだよ」と言ったそうです。何も知らないで嬉しそうにしているトキコを置いて祖母は泣きながら帰っていきました。その日トキコは女将さんに台所に連れて行かれて初めて仕事の内容を話されて体がガタガタ震えたそうです。そこえトキコより年下と見える娘が少量の煮魚と麦ご飯を持って来ました。女将さんは「いつもはもっと美味しいものが食べられるからね」といいました。その食事をお腹いっぱい食べさせてもらい粗末なふとんで泣きながら眠ったそうです。翌日女将さんに呼ばれて裏口に行くと祖母が立っていてトキコをギュッと抱きしめ「ごめんね ごめんね一緒に帰ろうね」と言ってトキコの手を引き小さな手荷物を抱えて長屋に帰ってきたそうです。まるで時代劇によくあるシーンのようですね。
 母の母,即ち祖母は福井県の出身です。その後、函館で結婚し六人の女児を出産、大正14年に旦那は病気で亡くなったのですが女手一つで上の姉二人を結婚させ、残った四人の娘を抱えて魚の行商などをしていたのですが生活が段々と苦しくなり暮らしていけなくなったそうです。そこで母は一大決心をし、末っ子とその上の子を嫁いだ娘たちに預けて、私の養母トキコとすぐ上の姉梅子と二人を連れ旦那の骨壷を持って札幌行きを決行したそうです。しかし貧乏暮らしに耐えていたためお金も底をつき、汽車賃が小樽までしか無かったのでそこで下車し、真夏の線路を札幌めざして歩いたそうですが、途中で祖母は倒れてしまい近くのお寺にお世話になりました。おかげさまで体力も回復し出発しようとした時お寺の住職さんが「この暑さの中大変でしょう。せめて骨壷だけでもここに置いて住まいが見つかったら引き取りに来なさい」と言われたので預けてきたのですが頭が朦朧としていたせいか、そのお寺がどこなのかいくら考えても思い出せずそのままになってしまったということです。
親子3人は命からがら札幌につき、残ったわずかのお金で長屋の一角を借りました。それから少し経った頃姉梅子は男をつくって出て行ったそうです。祖母がやっと稼ぎに出たものの収入は微々たるものでした。
トキコは17才になっていましたが勉強が好きだったので尋常小学校の先生の勧めで苦学生として高等女学校に進んだとのことです。女学校の外人教師宅のメードをしたそうでコーヒーの入れ方やパンの焼き方を覚えられたといつも自慢をしていました。昭和初期のことですから確かに自慢できることでしょうね 
 勇気を持って告白します。私の養母は札幌の遊郭で女郎をしていた人です。
今やっと我が子にも本当の事が話せそうです。

 私、姉、弟三人とも血縁はありません。
それぞれ、姉は生後間もなく私は6才弟は5才の時貰われてきました。昨今では生活保護はもとより児童扶養手当、子供手当と生活を政府が援助してくれますが、戦中戦後と食べ物の無い時代に身を削って育ててくれました。養母はある時私たちを育てた経験を小説に書きたいと言い出し「どんな?」と聞くと、題名は「愛は血ならず」で自分の過去もさらけ出し、 三人の子供を必死に育てたことを嘘偽り無く書きたいと言うのです。「やめてよ!」と中学生だった私は激怒しました。でも今考えると凄い女だったと思います。

 そんな母のことを私が小説にして世に出してあげたいと思っているのですが、私は文章を書く事が苦手な上どのようにしたら良いのか分からないので、とりあえずブログに書きました。これからも更新していきますので読みに来て下さったらうれしいです。

毎週、月、木、土曜日に更新予定です。
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