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養母の凄い人生

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なつかない子供
 飲み屋には母の友人たちや近所の人々が始終出入りしていて家全体がにぎやかであった。私はなかなか『お母さん』と言い出せず、どうしても主張のある時は突然に直立不動の姿勢で母の前に立ちふさがり両手の指先をもそもそと動かしながら「ノートを買ってちょうだい」と、用件のみを言うのだそうです。最初の頃はその姿がおかしく思っていた母でしたが時がたっても自分に懐かない私に悲しくなっていったそうです。本当に自分に育てられるのか、いや、もう少し待ってみよう。その繰り返しで結局『日野』の戸籍に入れたのは昭和26年、私が8歳になってからでした。そんな事とは知らず小学校では「日野」を名乗っており、母が学校と折り合いをつけてくれたのでしょう。私がこれまであちこちを転々と預けられたのも養子先に馴染まずに返されていたのかも知れません。今考えるともし、日野家を追い出されていたらと思うと本当に背筋がぞっとします。しかし外弁慶と言うのか、家ではほとんど口を利かない子でも外で遊ぶ時は甲高い声を張り上げ結構なガキ大将ぶりを発揮していたようです。姉は勉強や読書が好きで学校から帰ると家にこもっている事が多くおとなしい子でしたが私は外で日が暮れるまで真っ黒になって遊びまわっていた。近所には朝鮮人の子供が居て他の子供たちが「やーい、朝鮮人、朝鮮人」といじめていた。夕張の山育ちの私には朝鮮人の意味がわからず、子供たちと一緒になって叫んでいると、母が買い物帰りに通りかかって私は家に引っ張りこまれ、「人間はなに人であろうと、皆同じ人間なんだよ。逆の立場だったらどうする? 今度からそんなことを言ったら引っ叩くからね」と叱られ、子供心に回りに同調して弱い者いじめをした自分が恥ずかしく感じたのである。
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