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養母の凄い人生

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隔離入院
 昭和27,8年ごろ日本人は戦後の苦しい生活から完全に脱し食料品や衣類など生活用品はお金さえ出せば手に入る世の中になりました。遠足や運動会など学校のイベントには子供たちが喜びそうなおやつを沢山持たせてもらいました。ところがです、そのころ庶民には高価で普段はなかなか食べられなかったバナナを運動会に母が持たせてくれたのです。姉も一緒に食べたのですがその翌日から私だけお腹がよじれる様な激痛に襲われました。当然学校は休んで寝ていたのですが寝ているよりトイレでしゃがみこむ時間のほうが多いので心配した母が鼻汁のなかに短い絹糸を混ぜたような便を見て「これは只事ではないから病院へ行こう」と家の近所に新しく出来た国立の病院へ連れて行かれました。そしてその後が大変でした。家に帰ってからは家中の食料品を全て処分し、店は営業を停止をし、保健所の車が来て家中を消毒していきました。母はいつにも増して優しくなり悲しそうに私を見つめて「どうしてカコちゃんだけこんなことになるのかね、可愛そうに、あんた赤痢だって、もう少ししたら車が迎えに来るから早くても2週間は誰にも会えない病院でお腹の菌が居なくなるまで入院しなければならないよ。お姉ちゃんにも母さんにも会えないけれど我慢して赤痢を治すんだよ」と涙声で言うのです。私は自分のせいで店も休み、家の中の食べ物がすべて捨てられ、病院の費用やこれからの入院費、さらに家中が消毒臭くなってしまった事などで申し訳なさと怖さで胸が押しつぶされそうになっていました。そこへ救急車が到着して母と一緒に丸山方面の隔離病院へ搬送されました。母は医者の話を聞いていましたが私だけ担架で病室へ運ばれベッドに寝かされました。その部屋には6人ほどの入院患者がおりました。病室は古い木造の建物でしたが窓が頭と足のほうにあり、寝ていても廊下越しに、周囲に樹木が見られて美しい緑色の陽が差し込む明るい病室でした。もう母は帰ったのかと思っているうちに前日の寝不足もあって眠りに就いたようでした。翌日からは幼児期に他人の家を転々としたせいでしょうか、家族に会えないにもかかわらず寂しさはありませんでした。それよりもお腹の痛みは薬で抑えられているので体調は普段とあまり変わりなくおやつが食べられなかったので毎日の食事の時間が待ちどうしかったのを覚えております。
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