養母の凄い人生
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北海道の冬は燃料費が生活を圧迫するのです。私は小学校5.6年生だった。母の店はもう飲み屋という感じではなく寂れた食堂と言った感じで、前日の売上金で今日の米や石炭を買う始末で、よく姉と近所にヤミ米を一升とか二升を買いに行かされた。冬の夜道を姉妹で、竹スキーに乗って先に付いているヒモをじゃんけんに勝った方が引っ張って貰うのである、米屋といっても普通の民家で、薄暗い玄関は一畳ぐらいの土間になっていて、「お晩です」というと、障子が開き、おばちゃんがぶ厚い油紙を広げて一斗缶の中の米を年季が入って真っ黒になった一升マスで量ってくれるのである。その一斗缶を見て「家にもこれ位のお米がいつも、あったらいいのに」と思ったものである。その間、子供心に、ごまかされないようにじっと見つめていると、持っていった米専用の木綿袋に入れてくれる。その重くなった袋を今度は、竹スキーにしゃがんで乗り、米袋をひざの上に大事そうに置き、姉に引っ張って貰って帰るのが楽しみであった。当時は、こんな貧乏くさいことでも、周りも貧乏な家が多かったので、私たち姉妹は、平気であった。
冬の暖房用の石炭も本当は秋が深まる頃まとめて買い置きをして一冬使うのだが、我が家はそうはいかない米と同様に小買いに頼らざるを得ない。当時リンゴ箱といった長方体の木箱2個を、子供が遊ぶソリに荒縄でくくりつけて雪道を引っ張って燃料店まで買いに行くのである。帰りは石炭が入って重くなったソリをひっくり返さないように慎重に曳いて帰るのである。
冬の暖房用の石炭も本当は秋が深まる頃まとめて買い置きをして一冬使うのだが、我が家はそうはいかない米と同様に小買いに頼らざるを得ない。当時リンゴ箱といった長方体の木箱2個を、子供が遊ぶソリに荒縄でくくりつけて雪道を引っ張って燃料店まで買いに行くのである。帰りは石炭が入って重くなったソリをひっくり返さないように慎重に曳いて帰るのである。
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兄は23才になっていた。生活が苦しくなっていったある日から土木作業の日雇い仕事を見つけた。
冬の寒い日は、足の冷たさを凌ぐために、ゴム長靴の底に粉唐辛子を挟んだ脱脂綿を入れて毎日出かけていった。しばらくして、店の客の紹介で九州に本社のある大きな製造業の会社の社員になった。2年が過ぎたとき職場のある女性に子供が出来たと聞かされた。責任を取って結婚したいと言うのです。その頃は兄の収入が主になっていたので結婚をして家を出ていかれると大打撃なのです。しかし今まで助けてもらったのだから喜んで祝福してあげようということになりました。兄の居なくなった私達の生活は益々困窮を極めた。店はというと客が時々しか来なくなった。ある夜、姉と私が眠っているといつもとは違う母の甘えるよう声と男の声で目が覚めた。その甘えるような声に幼心にも胸騒ぎをおぼえ起きて聞き耳をたてていると明かりが消えた。私は布団から抜け出し足音を忍ばせて壁に隠れるようにして様子を見ていた。窓から差し込む月の薄明かりが、もつれ合う母と客のシルエットを浮かび上がらせていた。息も出来ないほどの衝撃だった。そしてしばらくして明かりが灯ったとき、男が小声で言った「今日はあまり持ち合わせが無いから、これで良いか?」と。
その時は、心臓も呼吸もこのまま止まるのではないかと思うほど驚いたのだが、会話を聞いてしまった事が、とてつもなく悪いことをしたような、恐ろしい気持ちだった。私は分かっていた、家にお金が無いのでこんなことをしてお金を貰ったのだ、ということを。しかし、この場面を思い出す度に実の母だったら、私はどうしたであろう。その場で泣き出してしまったのではないかと思う。そんな事がその後3度ぐらいあったように記憶している。その頃、姉は私立女子高校の中学部に通っていた。当時としては、場末の飲み屋の娘が私立の中学校に行くなど常識では考えられないことだった。しかし、母は「お姉ちゃんは長女だから、きちんとした教育を受けさせる」といっていた。現状から見てもかなり無理があったが、若い頃に生活苦から学業をあきらめざるを得なかった自分を思い起こしてかなり無理をしていたのである。私はいつも思っていた、「かあさんが、あんな事をしてまでお金を作っているのにお姉ちゃんは、よく平気で私立など行っているな」と。しかし、姉はそんなことには気が付いていなかったが学校が指定したコートやカバンを買えずに同級生よりはるかにみすぼらしい格好をした自分に耐えながら母の意を汲んで真面目に学校へ行っていたのである。
冬の寒い日は、足の冷たさを凌ぐために、ゴム長靴の底に粉唐辛子を挟んだ脱脂綿を入れて毎日出かけていった。しばらくして、店の客の紹介で九州に本社のある大きな製造業の会社の社員になった。2年が過ぎたとき職場のある女性に子供が出来たと聞かされた。責任を取って結婚したいと言うのです。その頃は兄の収入が主になっていたので結婚をして家を出ていかれると大打撃なのです。しかし今まで助けてもらったのだから喜んで祝福してあげようということになりました。兄の居なくなった私達の生活は益々困窮を極めた。店はというと客が時々しか来なくなった。ある夜、姉と私が眠っているといつもとは違う母の甘えるよう声と男の声で目が覚めた。その甘えるような声に幼心にも胸騒ぎをおぼえ起きて聞き耳をたてていると明かりが消えた。私は布団から抜け出し足音を忍ばせて壁に隠れるようにして様子を見ていた。窓から差し込む月の薄明かりが、もつれ合う母と客のシルエットを浮かび上がらせていた。息も出来ないほどの衝撃だった。そしてしばらくして明かりが灯ったとき、男が小声で言った「今日はあまり持ち合わせが無いから、これで良いか?」と。
その時は、心臓も呼吸もこのまま止まるのではないかと思うほど驚いたのだが、会話を聞いてしまった事が、とてつもなく悪いことをしたような、恐ろしい気持ちだった。私は分かっていた、家にお金が無いのでこんなことをしてお金を貰ったのだ、ということを。しかし、この場面を思い出す度に実の母だったら、私はどうしたであろう。その場で泣き出してしまったのではないかと思う。そんな事がその後3度ぐらいあったように記憶している。その頃、姉は私立女子高校の中学部に通っていた。当時としては、場末の飲み屋の娘が私立の中学校に行くなど常識では考えられないことだった。しかし、母は「お姉ちゃんは長女だから、きちんとした教育を受けさせる」といっていた。現状から見てもかなり無理があったが、若い頃に生活苦から学業をあきらめざるを得なかった自分を思い起こしてかなり無理をしていたのである。私はいつも思っていた、「かあさんが、あんな事をしてまでお金を作っているのにお姉ちゃんは、よく平気で私立など行っているな」と。しかし、姉はそんなことには気が付いていなかったが学校が指定したコートやカバンを買えずに同級生よりはるかにみすぼらしい格好をした自分に耐えながら母の意を汲んで真面目に学校へ行っていたのである。
若い娘を雇うことは今も昔も男の問題が付き物で迷惑をかけられることが多々ある。そこで母は自分より7歳年上の見た目おばあさんのような女性を雇った。酒が好きで働きに来たという、いつも母にのみ過ぎないように注意をされていたがそんな忠告も無視して毎日のように酔っ払って叱られていた。珍しく客が入り忙しい夜だった。その女性はいつものように酔っ払って店の通路に倒れて寝込んでしまったので閉店までそのままにして様子を見ていた、そのうちにいびきが段々大きくなり心配になった母は女性の家まで行き息子さんを呼んできました。息子さんがいくら揺すっても起きる様子が無いので背負って帰っていきました。そして翌日また息子さんが来て「母は夜明けに亡くなりました。医者の診断は脳溢血だそうです」と言いました。毎日のように酒を控えるように言っていたのにと母は突然の出来事にショックのあまり顔面蒼白でした。息子さんに体を揺すらないよう何度か制止したのですが息子さんは彼女を早く起こして家につれて帰えろうと身体をかなり強く揺すっていたのでした。
そんな出来事が続いているうちに季節は冬が迫ってきました。母は商売をする気を無くしたのか提灯を出さない日が多くなった。
そんな出来事が続いているうちに季節は冬が迫ってきました。母は商売をする気を無くしたのか提灯を出さない日が多くなった。
お客は母ひとりの店にはあまり来なくなっていたので若い女性を使うようになった。その中の一人で以前に店で働いていた清子さんがやってきた。母が「あの娘は最近彼氏が出来て店に来ると二人で部屋に入ったきり出てこないから困る」と言っていたが店を辞めてひと月位経っていただろうと思う。長火鉢をはさんで母と話していたが彼女は突然ウーッとうなって前かがみなった。その後姿にお腹が痛そうだったので私が駆け寄ろうとしたときこちらを向いて座っていた母が物凄い怖い顔でこちらに来るなと目で合図をした。心配でそのまま見ていたのであるが奇妙な事が起こっていた。彼女が片足を立てて苦しそうに唸っている、その前では母がその足元を今まで見た事も無いような恐ろしい顔でじっと凝視しているのである。彼女は着物の裾を広げて後ろにいる私には見えないようにしていたがあの時の母の顔はただ事ではない様子だった。後から何があったのか母に聞いてもいつもは何でも話してくれるのに子供には関係ないと叱るばかりであった。想像するに、流産したのかそれよりもっと何かおぞましい事があったような気がしてならない。
姉はこんなとき運が良いというのか決まってその場に居ないのである。子供としては見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさがいつまでも残っていた。
商売を始めてから2~3年は食べるぐらいの事は何とかなっていた。しかし、その住所は母が女郎をしていた遊郭からはそう遠くはなかったので、母の過去を知っている人たちも近所に居たようで、噂が広がるのに時間はかからなかった。晩酌がてらに立ち寄っていた近所の亭主族も女房の嫉妬もあってか、店は日一日と閑古鳥が鳴き始めた。噂話の好きな人々の多い下町であり、私達が養女であることも知れ渡っていた。近所の子供達からは「やーい、もらいっ子」とよく言われたので、私はやはりそうだったのかと思いながらも、余計な事を自分の子供に教える親たちに腹が立った。そんな時、私には、決まって言い返す言葉があった「あんた達の親なんか自分の産んだ子供を育てるだけでヒーヒー言っているじゃないか。貰いっ子でなにがわるい!私の母さんは他人の産んだ子供を一生懸命に育てている立派な母親だよ!そんな人に貰われて何が悪いのさ!」と、言われた事に対する腹立たしさをどう表現してよいのか分からないので無我夢中になって怒鳴り返したものだった。母が私の出生を必死に隠しているのに近所の子供たちが大声で叫ぶことに腹が立ったのである。母は自分の過去は隠そうとはしない人だった。「誰にも迷惑をかけないで生きてきた」それが口癖だった。しかし、私が養女であることは何度きいても本当のことは言ってもらえなかった。