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養母の凄い人生

カテゴリー「母」の記事一覧
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 母は信心深い人でもありました。私が中1の2月の事です。お坊さんの説教を聴くのが為になると言って2,3ヶ月に1度行われる報恩講というお寺の行事に出かけていったのですが帰ってくるといつもと様子が違うのです。妙に沈んでいていつもの母らしくないのです。姉と私はあたらず触らずまるで腫れ物にでもさわるようにしていると夕方になり父が帰ってきました。食事も静かに終わろうとした時父が「嫌に静かだな、どうしたんだ?」と聞くので私たちは首を振って視線を母に向けました。母は食欲も無い様子で茶碗と箸を持ったまま口を横一文字に結んでうつむいておりましたが突然「お父さんお願いがあります!」と言って畳に頭をすり付けて土下座をしました。そして「可愛そうな男の子を家に連れてきたいのです、お願いします」と、唐突に言われた父は勿論私たちも何のことを言っているのか訳が分からず「筋道を立てて説明しなさい」と言われると大きなため息をついてから話し始めました。
母の話はこうでした。大人でも冬の水仕事はつらいのにこんな寒い2月に5,6歳の小さい男の子が手を真っ赤にして雑巾を絞りながらお寺の長い廊下を拭いていたというのです。驚いた母はお坊さんにどうしてこんな事をさせているのかと聞いたそうです。するとその子は檀家さんの紹介で預かっている子供で両親が離婚して父方に引き取られたが父親は仕事が忙しいのと彼が幼いために面倒を見られなくなったので養子先を探しているとのことだった。お寺ではもしも養子先が見つからなかったならこのまま小僧さんとして修行を積ませてお坊さんにするつもりだと言うので母はお坊さんの修行をさせるには幼くて可哀想だというのです。それで我が家で引き取り養子として育てたいと言うのです。父は「犬や猫の子を貰ってくるのとは訳が違う、今でも生活状態がギリギリなのに何を寝ぼけた事を言っているんだ!呆れてものが言えない」と言って立ち上がると母は泣きながら父の後を付いて周り「お父さんお願いします家には男の子がいないから、お願い、どんな苦労も我慢しますから」とすがりついたりするので「うるさい!!」と父は一括して銭湯に行ってしまいました。私たちも呆れてしまい母を無視する事にしました。母は一晩中泣いておりました。私は布団に入ってから自分が始めて狸小路で会った時もあんな風に母が泣いていた事を思い出して母の願いが叶うと良いと思いつつ眠りに就きました。 
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 父が学校の職員組合で積み立てた互助会費で家族レクリェーションがありました。行き先は札幌から1時間ほどの所にある支笏湖という湖です。6月からは姿や色の美しいヒメマスが解禁になりキャンプ場もあって私たちにとっては生まれてはじめてのレクリェーションでした。着るものも父が札幌専門店街のクレジットを持っていたお陰で私たちの外出着や母の着物が月賦で買えるようになりました。当時は今のようにサインやカードで買いものをする事は一部の人々にしか普及していませんでしたので買い物をする時はなんとなく優越感を感じたものでした。その日のイベントの装いは母はお召しと言う生地の着物、私は白いヴラウスに胸に刺繍が入ったワインカラーのジャンパースカート、姉は夏の制服、やっと皆と同じ制服が着られるようになりました。そして深緑の支笏湖をバックに初めての家族4人の写真を撮りました。サクラの季節には父が作った料理の詰まった重箱を持って円山公園でお花見をしました。ごく平凡で平和な家庭のように見えていたのですがある日、店のラーメンに入れるロースの豚肉が切れていましたので母は父に「自転車で肉屋まで行ってきて」と使いを頼みました。そして買ってきた肉を見て母は「こんな細切れは使えないよ!」といきなり肉を父の頭目がけて投げつけたのです。その肉は父の禿げた頭にペタペタと張り付いてしまいました。これには普段温厚な父もさすがに怒ってしまい頭の肉を手で拭い取ると目の前にあった鋼鉄製の石炭ストーブに思い切りぶっつけました。ストーブに張り付いた肉はジューッと美味しそうな音と共に良い匂いと煙が立ち昇ったのでそれを見た姉と私は大急ぎで箸とお皿を持ってストーブの前に座り込み張り付いた肉をはがし醤油をかけて大喜びして食べたのです。父母は気まずい雰囲気でその夜は一言も口を利きませんでした。仲の良いときは人目もはばからずベタベタしているのですが喧嘩となるとたいそう派手なものでした。
小学5年生になったとき担任が若い女の先生に変わりました。教室のムードが前年度よりはるかに明るくなりました。いつもいじめられてばかりいた私にもかばってくれるクラスメートが出来ました。一人は女子のクラス委員長で幸子さん、いじめっ子たちの前に仁王立ちになって「やめなさい!」と一喝してくれて、もう一人は家の裏に住んでいた小森君でこの子は身体が弱かったために3年遅れで小学校に入学したと母は言っていましたが大人で頭のよい子でした。無言のまま悪ガキどもを殴り倒してその場を立ち去って行く、今風のアニメのヒーローのような人でした。そして私の淡い初恋の人でもあります。学校が少しずつ楽しくなってきた年のお正月に先生がご自宅にクラスの生徒を招待してくださいました。前の夜は嬉しくてなにを着ていこうかと考えたり母は手土産を何にしようと言ったり新学期以降、私の性格が明るくなり自分にも心を開いてくれる私を前にも増していとおしく思っているようでした。
ある日のことです、母が少女雑誌に掲載されている短編小説を読みながら泣いているので「そんなに悲しい小説なの?」と聞くと自分と同じ心情が書かれているので感動しているとのこと、それはフランスの落ちぶれた貴族母子の物語でした。すっかり貧乏になってしまった母子に世間の冷たい視線が向けられるのですが母親が毅然と生き抜く様が描かれていて子供たちに「家には財産も宝石も無いけれどそれらよりも素晴らしい宝がある、それは貴方たちですよ」と言い聞かせる場面に自分を重ね合わせて感動したと言う、その時は軽い気持ちで「ふーん」と聞き流していたのですが自分が親になって子育ての大変さを知り、他人が産んだ私たちをこんなにも大切に思いながら育ててくれた母に何と感謝してよいのか自分の反抗期を思い出してただただ申し訳なく思う私です。
 父と母の朝は小さな花畑の手入れから始まります。10坪ちょっとの敷地に少しづつ何種類もの花
や葡萄の棚がありました。父は菊作りが好きで特に懸崖菊を作るのが趣味でしたので上手く出来たものは店に飾って自慢気でしたがある時酔っ払った客がその菊の花を摘み取っては床に投げつけまた摘み取って投げつけるを繰り返したのです。するとそれを見た母は「ちょっとぉ!お父さんの大事な菊をなにするのよ!」と言ってその客の胸ぐらにつかみかかり顔に平手打ちを一発お見舞いすると酔っていたこともあってよろけてその場に倒れてしまいました。すると母はさらに馬乗りになって殴り続けたのです。そこに父が止めに入って一件落着したのですが父に「女の癖に男に馬乗りになるとは」と叱られると勇ましかった母は一変して泣き出し「だってお父さんが大事に育てた菊をあんなふうにするんだもの」と言うのです。思い出せば私と姉も言う事を聞かなかった時はよく母に殴られました。これが昨今でしたら虐待と言われても仕方がないようなひどいものです。げんこつで頭を殴られたりまだ小さくて軽かった私を持ち上げて床に落とされたものです。姉は危険を察知するとその場にジッとして動かなくなるので1,2発殴られておしまいなのですが、私はすぐに逃げ出しますので太り気味の母は息を切らしながら追いかけてきて逃げた分だけ加算されて殴られるのです。
でもその後はとても優しく甘酒やプリンもどきの玉子料理を作ってくれたものです。心を痛めながらしつけの為に叩いていたのだということが子供心にしみ込んできて反省したものです。殴ることが即虐待だとは思いません。私はシングルマザーだったので息子が小さかった頃は仕事がいそがしくて話し聞かせて理解させるための時間がありませんので言う事を聞かないときは頭の中で「この程度なら大丈夫かな」と手加減をしながら叩きました。息子が18歳になった頃のことですが和裁用の1メートルの物差しが見つからないので聞いたところ「小さい頃にあれでよく叩かれたから気分が悪いから捨てた」と言うのです。可笑しくて吹き出してしまったのですが、後日になって物差しは押入れから出てきました。何のことは無い、自分のしまい忘れで、息子は冗談を言ったのだと分かりました。
 私が小学校の高学年の時です、学校から帰ると家の台所には不似合いな立派な冷蔵庫が置いてあった。母に聞くと藤井さんが買ってくれたと言うのです。嬉しくて中を見ると大きな氷の塊が入っていてその冷気で下の部屋を冷やすようになっていて小型ではありますが外側は木製で扉には頑丈な金具が付いていてバシッといい音を立ててしまるのです。こんな高価なものを買ってくれる藤井さんってとても良い人のように思いました。そして私たちの勉強も気にかけてくれるし店ではなく茶の間に来ても何の違和感もなくなりました。
後になって考えると冷蔵庫は母へのエンゲージリング代わりだったのでしょうか。そんな訳で母は私たちの将来を考えて公務員の藤井さんと結婚をする事にしました。昨今では女性の結婚年齢が年々高くなっていますが当時は38才にして養女が二人も居てなお且つ身体を売って生き抜いてきた母の初めての結婚でした。しかし私と姉は日野の姓が変わるのが嫌だと母に言うと以外にあっさりとそれを認めてくれました。そしてこう言ったのです「亡くなったおばあちゃんの為にも日野の性は残したい」と。こうして藤井さんは男所帯だった生活用品を持って我が家に入り、私たちの父となりました。母は私たちが目のやり場に困るほど51歳の父に甘えておりました。朝の出勤時には父の頬にキスをしたり帰宅すると女の匂いするなどと体中に鼻をつけて臭いを嗅ぐまねをしたりしていつも「子供が見ているだろう」と父に叱られておりましたが13才も年下なので可愛く思っていたようです。そんな母を私は子供のような人だと思いながら見ておりましたが
これでやっと普通の家庭になったのだと思ったのです。
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