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養母の凄い人生

カテゴリー「母」の記事一覧
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私は店の仕入れのお供をするのが好きでした。母は太った身体に大きな竹の篭を持ち徒歩で15分ほどの所にある市場に行って店の料理に使う魚や野菜を買うのですが重たくなるとその篭を二人で持って帰るのです。その日は雨でしたので母はゴム長靴を履いていましたが「お姉ちゃんには内緒!」と言って私たちには不似合いなちょっと高そうなおすし屋さんに入った時のことです。私達はカウンターに座っていたのですが何となく背中に人の視線を感じて振り向くとテーブル席に和服姿の奥様たちが3人居て私たちと目が合うと急に無言になって視線を逸らせたのです。すると母が私の腕を引っ張って前を向かせて言いました「よそ見していないで好きなものをたのみなさい」と、我が家は貧乏はしていましたが商売をしていたせいか食べ物はわりと贅沢でしたので子供のくせにウニや鮑が好物でそれらをカウンター越しの板前さんに握ってもらってペロっとたいらげ満足して外に出るとまた母は言いました「あの奥さんたちは母さんが長靴なんか履いて汚い格好をしていたからジロジロ見て居たんだよ。でもあの人たちは上等な着物を着ていたけれど食べていたものは1人前の桶で母さんたちより安い寿司を食べていたんだよ。きっと普段の生活も着る物にはお金を掛けるけれども食べる物は質素なんだろうね、人間はね食べたい物を我慢して見栄ばかり張っていると人様の外見が気になるものなのよ」と。そして食事の作法も大変厳しい母でした。食卓に肘を着く事はもちろんタブーでしたが茶碗を鷲づかみしてはいけないなど茶道を心得ている母ならではの躾でした。変わっているのは中学生になったばかりの頃でした、銭湯で私が髪を洗っていると横に居た母が手の甲で私の太ももをパシッ!と叩いて「女の子は足を広げるものじゃない!」と叱るのです。後になって思い当たるのはやはり水商売をしていた母ならではのしつけでしょうか指の先から足の先まで女らしいしぐさを身に着けさせようとしたのか立ち振る舞いは特に厳しかったと思います。銭湯は毎日というわけにもいかず冬の冷え切った体のままの就寝は布団も冷たくて寝るのが嫌でいつまでもストーブの傍でウトウトしていると母は「さぁさぁ」と私の背中を押して布団の中に連れて行き自分も裸になって小さくて冷たい私の身体を自分の太ももや胸に密着させて全身で抱え込むように温めてくれました。そのぬくもりは昨日のように覚えております。もう60年以上経ったと言うのに。
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 飲み屋“とき”は客が一人も来ない日が続くようになりました。電気代にもならないと、閉店の日が多くなりました。そうなると収入が全く無くなるわけで、母は夜の仕事に出かけるようになりました。その仕事とは母の友人が家に遊びに来て茶のみ話をしているのを私が聞き耳を立てていて知ったことですがそれは客引きといって、夜の繁華街で、「いい娘がいますよ」と男性に声をかけて売春を斡旋することでした。女友達と「おばさんでいいよと言われた」などと笑い飛ばしておしました。寒い日はエンジ色の毛糸のトッパーコートを着込みスカーフを深々と被って出かけていった姿は、今でも目に焼きついて離れません。この生活は1年くらい続きましたが、いくらかゆとりが出来たのでしょうか、夜は出かけなくなりまた店を開けるようになりました。この頃の母がよく“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある”と、自分に言い聞かせるように言っていました。必死に生きる道を探せばきっと見つかると言うことなのでしょうか。
母はまた以前のように明るさが戻ってきたようで店も少しづつ活気付いてきました。笑う門には福が来るとでも言うのでしょうか近所の中学校の先生たちがポツポツと呑みに来るようになり、その常連さんの中に当時は小使いさんと言っていたのですが中学校の用務員をしている田中さんという人がいてその人がある日この校区の小学校の給食主任をしている藤井さんという人を連れてきて母に紹介しました。それ以来、藤井さんは一人でもよく来るようになりました。田中さんと鉢合わせると「抜け駆けして、御免」などといって、楽しそうに二人は呑んでいました。藤井さんの酒量はと言うとたしなむ程度で、小柄で色白、目つきは鋭かったが品の良い紳士といった感じでした。奥の部屋にいる私たちにも「勉強しているか?」などと声をかけることもあって、藤井さんが来ると母はご機嫌が良かった。翌日は仕込みや家事も鼻歌まじりでやるようになりました。近所から出前の注文があるとまだ慣れないうちは姉妹で持ってゆきましたがそのうちお互い一人でも配達を手伝う事が出来るようになり私はお客様との挨拶や会話をするのが好きになっていきました。

昭和28年、寒さの厳しい2月でした。兄嫁が血相変えてやって来て昨夜警察から連絡があり、兄が女性と心中をして亡くなったと言うのです。二人の間には、まだ2歳になったばかりでよちよち歩きの可愛い男の子がいました。私に良く懐いていてとても可愛かった。兄嫁がやって来る2日前のことですが私が外の用事から帰ると兄が雪の降りしきる中に三角ストールをまとった小柄で可愛らしい女性と二人で立っていたのです。家に入るように促すとここで良いと言って私に「お兄ちゃん、しばらく来られないから母さんの言うことを良く聞くんだよ。お兄ちゃんが来たことを誰にも言わないで」と言って立ち去ったのを思い出して、そのことを母に告げると「何でここまで来て、顔を出さなかったのか、話をしたら、思いとどまったでしょうに」と声をあげて泣き崩れた。
18歳で養子に来て、私たち家族の生活を支え続けてくれた兄だった。亡くなった女性とは会社に入社して間もなく知り合い、二人は愛し合うようになったそうだ。女性の両親に反対されながらも結婚の約束をしていたが、3歳年上の今の嫁に誘惑され、若かった兄はつい深い仲になってしまったという。そして子供ができたので結婚をしたのだった。母も私たちもそのことは兄から聞いて知っていたが、結婚を期に心中した女性とは別れたはずだったが、彼としてはその女性と職場で毎日顔をあわせるし、忘れることが出来なかったのだろう。二人は豊平の連れ込み旅館で睡眠薬を多量に飲み、もう、絶対に離れない、とでも言うように、お互いの手首を白い紐で結んで亡くなっていたそうです。母から話を聞いてまだ男女のことなど解りもしない私でしたが、薄幸なままで24年の短い生涯を閉じた兄が、かわいそうで涙が止まりませんでした。翌日になってから町内会館の和室に寝かされていた兄の遺体を見た時は言葉にならないほどショックでした。赤紫の銭型の斑点が体中にあり、皮膚が黄色みをおびていました。毒物を服用して死んだことを物語っていました。顔に被せてある白布じっと見ていると、中央辺りから血が滲んでくるではありませんか。私は恐る恐る布をめくると兄は鼻血を出していました。すると母は「ああ、カズちゃんに合いたかったんだね。死んだ人は会いたいと思っている人に会えると鼻血を流すんだって」と言うのです。死ぬ前に私だけに会いに来たり、もう生きていないのに鼻血を出したり、なぜ?と思ったのですが、しばらくしてふと、小さい頃、兄にいたずらをされたことを思い出しました。母の言葉は、亡くなった兄を恨ませたくなかったのでしょうか。「貴女に悪いことをしたと、思っているのよ」と私には聞こえたのです。私はそんなことなどはすっかり忘れて、蚊に刺されたくらいにしか思っていないのに、母は気にしていたのでしょう。その後、兄嫁は子供を連れて田舎の実家に帰りましたが、我が家への連絡は一度もありませんでした。
私達が学校に行って母が一人になると、燃料が勿体ないといって、別に眠くもないのにストーブを消して布団にもぐりこんで寝ているのですが、近所に話し好きな奥さんが居て10時頃になると毎日やって来ては、夕飯の支度までおしゃべりをしていくのです。昼には一旦帰るのですが家族に食事をさせるとまたすぐ来て私が学校から帰ってくるまでお喋りをしていくのです。客商売をしていた母は人当たりも良かったのでその奥さんは母を慕っていたようでした。
そのうち母は奥さんの家に時々醤油や味噌を借りに行くようになったのであまり無下には出来ずに居ましたが、お金も借りては返し、返してはまた借りると言った日々が続いていました。しかしある日姉と私に「毎日あの奥さんが来ている6時間あまりの間に消費する燃料代が大変だ」と言うのです。今の世の中でも北海道の1月で毎日6時間の燃料の消費量は石炭でも電気料金でも大変な金額です。「来ないで」とも言えないのでこんな冬が2・3年続いたのです。母いわく「わが家のように母子家庭で爪に火を燈すように暮らしている人間の気持ちなんか旦那が稼いでいる人には判かりゃしないんだ、だから母さんは奥様族は大嫌いなんだ、本当に無神経ったらありゃしない!」と。
女手ひとつで他人の産んだ子供たちを育てている途方もなく心の広い母としては、くだらない隣り近所の噂話や旦那の悪口など聞いている暇があったら燃料代節約の為に寝ているほうが良かったに違いない。その奥さんが来るようになってから石炭を一度買うと10日程燃やせたものが、6日で無くなると、めったに泣き言の言わない母が涙を拭いながら愚痴っていた姿を思い出します。そんな事があったせいなのか今の私は人様の御家庭にお邪魔するのは苦手ですし、狭い歩道やスーパーの通路を塞ぐようにして立ち話をしている奥さんたちを見ると昔を思い出して不愉快になります。本当に母子3人、食べていくのがぎりぎりだったのです。
不器用な母でしたが、それでも正月などは小さくなって着られなくなったセーターを解き、毛糸を湯沸かし器の湯気で糸のくせを伸ばし、毛糸を足して新しいセーターを編んでくれました。ミシンが無かったので編み物をよくやっていました。その姿をいつも見ていたせいか私も編み物とか手仕事が大好きです。
北海道の冬は燃料費が生活を圧迫するのです。私は小学校5.6年生だった。母の店はもう飲み屋という感じではなく寂れた食堂と言った感じで、前日の売上金で今日の米や石炭を買う始末で、よく姉と近所にヤミ米を一升とか二升を買いに行かされた。冬の夜道を姉妹で、竹スキーに乗って先に付いているヒモをじゃんけんに勝った方が引っ張って貰うのである、米屋といっても普通の民家で、薄暗い玄関は一畳ぐらいの土間になっていて、「お晩です」というと、障子が開き、おばちゃんがぶ厚い油紙を広げて一斗缶の中の米を年季が入って真っ黒になった一升マスで量ってくれるのである。その一斗缶を見て「家にもこれ位のお米がいつも、あったらいいのに」と思ったものである。その間、子供心に、ごまかされないようにじっと見つめていると、持っていった米専用の木綿袋に入れてくれる。その重くなった袋を今度は、竹スキーにしゃがんで乗り、米袋をひざの上に大事そうに置き、姉に引っ張って貰って帰るのが楽しみであった。当時は、こんな貧乏くさいことでも、周りも貧乏な家が多かったので、私たち姉妹は、平気であった。
冬の暖房用の石炭も本当は秋が深まる頃まとめて買い置きをして一冬使うのだが、我が家はそうはいかない米と同様に小買いに頼らざるを得ない。当時リンゴ箱といった長方体の木箱2個を、子供が遊ぶソリに荒縄でくくりつけて雪道を引っ張って燃料店まで買いに行くのである。帰りは石炭が入って重くなったソリをひっくり返さないように慎重に曳いて帰るのである。
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