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養母の凄い人生

カテゴリー「母」の記事一覧
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時々母の遊郭時代の友人が遊びに来ていたがそんな時は私がいても気に止めることもなく昔話に花を咲かせ、手を叩きながら大声で笑いあう母たちの姿はいかにも楽しそうで、まるで女子校の同窓会のようでもあった。そんな話に聞き耳を立てて私は育ったのですが、母が女郎をしていたころは食べる物も充分には無かったそうですが、ある日のこと若い純情そうな兵隊が母の客としてあがったそうだ。緊張しながらもなんとかコトが終わった。すると布団の中がなにやら暖かいので手を入れたところ大変な事になっていたそうだ。兵隊は真っ赤になって泣き出しそうな顔をしていたそうだ。その若い客を帰えし、他の女達に手伝わせ汚れた布団の後片付けをしているとその中の一人が汚物を見て「ワーツ、小豆を食べているんだ。うらやましい」と言ったという。私が年頃になってその話しを思い出し、他人の汚物まで羨むとはそのころの日本はどこまで貧乏だったのだろうと思った。
私が住むようなった頃の白石遊郭はまだ営業をしている所も残っておりよくアメリカ兵が通りを歩いていた。遊びに夢中になっていた私は振り向きざまに若いアメリカ兵にぶつかってしまった。その人は「オーッ ベービーちゃん」と言ってしゃがみこみ転んで汚れた私のモンペを優しく掃ってから四角い包みを渡してくれたのです。それを家に帰って母に渡すと丁寧に解いた包装紙の中から美しい紙の箱が出てきてさらにふたを開けるとフワーッと良い香りがして区切られたさいの目の中にいろんなチョコレートが入っていた。母は「これはきっと彼女へのおみやげだったかも知れないよ、凄いものをもらったね、」と言って喜びあい、そのチョコレートを少しずつ大事に食べた。私はそのチョコレートの包み紙を一枚ずつ丁寧に皺を伸ばし大切に保管をして時々ふたを開けてはにおいを嗅いで夢心地になって楽しんでおりました。初めて嗅いだチョコレートの香りでした。
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 飲み屋には母の友人たちや近所の人々が始終出入りしていて家全体がにぎやかであった。私はなかなか『お母さん』と言い出せず、どうしても主張のある時は突然に直立不動の姿勢で母の前に立ちふさがり両手の指先をもそもそと動かしながら「ノートを買ってちょうだい」と、用件のみを言うのだそうです。最初の頃はその姿がおかしく思っていた母でしたが時がたっても自分に懐かない私に悲しくなっていったそうです。本当に自分に育てられるのか、いや、もう少し待ってみよう。その繰り返しで結局『日野』の戸籍に入れたのは昭和26年、私が8歳になってからでした。そんな事とは知らず小学校では「日野」を名乗っており、母が学校と折り合いをつけてくれたのでしょう。私がこれまであちこちを転々と預けられたのも養子先に馴染まずに返されていたのかも知れません。今考えるともし、日野家を追い出されていたらと思うと本当に背筋がぞっとします。しかし外弁慶と言うのか、家ではほとんど口を利かない子でも外で遊ぶ時は甲高い声を張り上げ結構なガキ大将ぶりを発揮していたようです。姉は勉強や読書が好きで学校から帰ると家にこもっている事が多くおとなしい子でしたが私は外で日が暮れるまで真っ黒になって遊びまわっていた。近所には朝鮮人の子供が居て他の子供たちが「やーい、朝鮮人、朝鮮人」といじめていた。夕張の山育ちの私には朝鮮人の意味がわからず、子供たちと一緒になって叫んでいると、母が買い物帰りに通りかかって私は家に引っ張りこまれ、「人間はなに人であろうと、皆同じ人間なんだよ。逆の立場だったらどうする? 今度からそんなことを言ったら引っ叩くからね」と叱られ、子供心に回りに同調して弱い者いじめをした自分が恥ずかしく感じたのである。
札幌の狸小路で母トキコと出会ってから向かった先は白石の遊郭跡で、どの建物も部屋が沢山あるので今はその部屋を利用してアパートとして現存している女郎屋も少なくなかった。その中の一つで住居兼店舗になっている1階の角を住まい3部屋と続いた店舗をトキコは借りて一杯飲み屋を女手一つでやっていた。
ぽっちゃり美人だった母の店は結構繁盛していて客が途切れることがありませんでした。もともと陽気な性格の母は酒が入ると色っぽく沖縄のユンタやその頃の流行歌をきれいな声でよく歌っていた。私が夜中に手洗いに起き、のどが渇いたので、のみ残しの牛乳と間違ってどぶろくを飲んでも「この子は将来飲兵衛になるね」などと私を止めもしないで笑って見ているおおらかな人だった。
 
ある日のこと私が遊びから帰ると小柄で品の良さそうなきちんと着物を着た女性客が来ていた。いつも来る昔の女郎仲間とは違うその人に向き合った母が珍しく暗い顔をして頭を垂れている。私を見ると「あっちへ行ってなさい」と言う。心配なので薄暗い奥の部屋から覗いていると、母がしきりに謝っている。そして恐ろしいことを言った「どうぞお気の済むまで叩いてください」と言いながら「奥様のお手に怪我をさせるといけませんので、、、」と、頭に手をやりヘアピンを抜き始めひざの上においた。そして「どうぞ」と言い終わるか終わらないうちにその女性は母のあたまを拳で一発なぐりつけた。この上品で華奢な人が何ということをするのだろうと私は恐ろしくなった。それからすぐにその人は綺麗なハンドバッグやショールを持ち着物の袖をひるがえして帰っていった。私が恐る恐る出ていくと母は叩かれて乱れた髪を手ぐしで結い上げ「おっかなかったかい?もう来ないから大丈夫だよ」と言った。その頃の私は、まだ母に馴染めず、「かあさん」と呼びかける子も出来ないそんな可愛い気のない私を膝の上に抱き寄せ頭をなでながら「おっかなかったでしょう?ごめんね、母さんね、一人で生活が大変だからこの間、来ていたおじさんにいろいろと相談に乗ってもらったり、お世話になっててね、そのことが、奥さんに判ってしまって、、、自分以外の女に親切にしていることが許せなかったんだって、でもかあさんはもうおじさんに会わないからあの奥さんはもう来ないよ。母さん、一人で一生懸命働くからね」と言いながら「さあ仕事々」と元気よく立ち上がり着物姿に割烹着ををかけて店に出て行った。今思えば6歳の私にそんな話をしても分かるはずがないと思うのだが、私がませていたのかおぼろげながら悟ったのがいま考えると早熟な子供だったのかも知れない。その時姉は小学校へ行っており母と二人だけの出来事だった。
あちらこちらとたらいまわしされているうちに母を恋しいと思う気持ちが段々薄れていきました。今は札幌の大通り公園にテレビ塔があるのですが当時はその横に豊平館と言う建物がありました。
私が札幌に住んでいた昭和42年ごろまでは中島公園のパークホテル近くに移設してありましたがその大通り公園横にあった頃の豊平館の白いサク前に置かれたベンチに私と実母と座っておりました。
何しろ4~5才の子供だったので何月だったのかは知る由も無いのですが、青空が眩しい心地よい風の吹く日でした。実母は私に真っ白いおにぎりを食べさせ口の周りについたご飯粒を指先で摘み取り自分の口に運びました。久しぶりの母との再会に気持ちが高揚していたのでしょう、私はケタケタと声を上げて笑っておりました。実の母との記憶はそこで終わっていて実母を思うときいつもその時のひっつめた髪型と面長で色白な笑顔を思い出します。その後は、また別の家に預けられました。たぶん親戚だと思いますが住まいの一角で時計屋を営む家でした。その家の主は片足が膝から下が切断されていつも胡坐をかいていて移動するときは両手を畳について自分の体を持ち上げていました。その人が時計の修理をすると私は目を凝らして飽きずにじっと見つめていました。大人になったら自分もこんな仕事をやってみたいと初めて自分の未来を思ったものでした。
この頃になると自分を取り巻く環境を外は雪景色だったとか少し先には大きな通りがあって豊平橋という橋のあることも覚えていたので多分5歳ぐらいになっていたのかもしれない。自分の過去を知ることが出来ないと言うことは実に悲しく、時にはルーツを辿りたいと真剣に思った事もありましたが、そんな暇もお金も無い人生だったので今は諦めております。そして、この時から多分あまり時期をおかずに後々に養母であり私の命の恩人でもある日野トキコと出会うことになるのです。
その後どれくらいの月日が経ったのか太陽がまぶしい季節であった。私は親戚らしき家に大人子供を合わせて十人くらいの家族の中にいた、その家族はみんな明るくて、食べ物はお腹いっぱい食べられた。昼は家族大勢で田んぼの仕事に精を出していた。大人たちについて行った私と子供たちは畦道を走り回りグスベリを摘んで食べたり、クローバーを摘んで首飾りをつくったり、年寄りには稲わらで虫や鹿などを作ってもらって遊んだ。田んぼに行かない日は家の庭でニワトリを追ったり子馬に乗せてもらったりして遊んだ。幼い頃の記憶のなかで数少ない楽しい思い出である。しかしそれは明るい間だけのことで、夜の闇が訪れると私に一生消えないつらい記憶を植えつけることになる。
10畳ばかりの部屋に子供達だけが横に並んで寝るのだが、私は汽車の汽笛が遠くで“ポー”と聞こえるとよく目を覚ました。そしていつも「母さんがあの汽車に乗って迎えにきた」と思うのである。眠い目をこすりふらつきながら薄汚れたカーテンを開けて外を見ると暗闇の向こうに夜汽車の窓明かりが点々と動いて消えてゆく「きっとあの汽車で母さんが迎えに来てくれた」そう思うのである。
今度は耳を澄まして足音を待つ。いつまでたっても足音は聞こえず、聞こえてくるのは虫の音と蛙の泣き声だけ、外は真っ暗、ただ蛍の青白い光りだけが一面に舞っていた。あきらめてまた布団にもぐり込むと涙があふれてきたが、子供心に他の子ども達に泣いていることを悟られまいと声を押し殺して泣きそのまま眠ってしまうのである。この時から私は蛍が嫌いになったような気がする。七十才になった今でも蛍を見ても綺麗だというよりはなんと寂しい光であろうと思う。
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