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養母の凄い人生

カテゴリー「母」の記事一覧
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我が家が建った
私が小学校3年生になったころ、母は、住んでいる所からそう遠くない低所得者が多く住むような所に30坪ほどの土地を買った。まだ舗装はされておらず、家の前には汚れ放題の小さな用水路が悪臭を放していたが、古材を集めて10坪ほどの小屋のような家を建てた。そして以前と同じような、一杯飲み屋を始めた。玄関の軒下に“とき”という文字の入った赤提灯が灯った。店舗部分は4坪で、その片隅みに畳み敷きの小上がりがあり、あとはカウンターといった、小さなものである。住まい部分はと言うと6畳一間に2段ベッドのようなものがあり、ベッドには姉と私が寝て少しはなれた所には母と兄が寝ていた。台所は2畳ぐらいだった。そんな小さな家でも女手ひとつで建てたのだから本人は大変嬉かったようである。開店初日は何度も外に出て小さな我が家と赤提灯を満足げに眺めていた。その辺一帯は、近所からサムライ部落と呼ばれていた。なぜサムライなのかは未だに判らないが冬になると空き地の雪が真っ赤な血で染まっていて掘り起こすと下から犬の骨が出てきた。その部落は犬を殺して食用とし、春になると山菜を山から採ってきて、外のドラム缶で茹で、売り歩いて生計を立てていたようだ。私はよくフキを茹でたあとの皮むきを遊び行っては手伝った記憶がある。そこの一角には近所の子供は近づかないのだが、私が遊びに行っても母は何も言わなかったので部落の子供たちとよく遊んだ。だが、頭にシラミがうつった時にはさすがに母もあわてたようで、入村禁止令がでた。思い起こすと人には言えないような環境で育ったようだが、当時はそんな生活環境は札幌の下町では珍しくなかった。バナナや卵は、まだまだ高級品であったが、日本中がやっと食べ物に不自由しなくなりつつある時代だった。
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姉の日舞稽古
家では姉が日本舞踊を習い始めました。私はその稽古に着いて行くのがとても楽しみでした。あの三味線の音や、お弟子さんたちが踊っているのを見るのが大好きで、いつも姉のお共をしていました。ある時、アパートの物干し台に上がって稽古場で見たお師匠さんの仕草や口三味線を真似て一人で踊っているところを母が見つけ「あら、カコちゃん上手だね」と褒めてくれました。そして母が「家はお金が無いから貴女にはお稽古事をさせられないの、お姉ちゃんは長女だからこれからも色々と習い事をさせないといけないしお金がかかるから、我慢してね」と言われ私は母に可愛がれていることを実感していたし、これ以上の幸せは望んでいなかった。それと自分が養女の身であることは常に心の底にあったので我が儘を言ってはいけないことを自覚していた。「カコちゃんは諦めがいいから母さんは助かるよ。その点お姉ちゃんは聞き分けが悪くて、いつまでもグチュグチュ言って、母さんを困らせる。カコちゃんは親孝行だね」と言われた事がとても嬉しかったが私としては、月謝を払ってまで覚えなくとも姉の稽古にお供していればお弟子さん達の踊りも覚えられたので何の不自由もなかった。発表会の時は、姉が振袖を何枚も買い与えられて持っていた。それまで親戚中をたらい回しにされて育ってきた私にとっては、実際の振袖を見るのは初めてで、そっと触ってみて体がぞくぞくしたのを覚えている。総絞りのショッキングピンクの美しいもの、黒い緞子地に千羽鶴の刺繍が施されたもの、虹の柄に白い鳩が羽ばたいているもの等があり、その時はじめて姉を羨ましいと思った。中ノ島の大きな料亭で発表会があり母は早朝から嬉しそうに何種類もの料理を作って重箱に詰め、近所の奥さん達を誘って行きました。姉は“藤娘”を踊りそれを母は涙を浮かべて観ていました。
 
昭和23年私は小学校にあがった、まだ物の無い時代だったが母は洋服や靴を新調してくれた。姉は一緒に小学校に行ける事が嬉しそうだった。手をつないで毎日一緒に行った。しかし、私にとって小学校は楽しい所ではなかった。人見知りする私は格好のいじめの対称になった。男子からノートに落書をされるとか、スカートをめくられるなんて事は日常茶万事で、下校時には先生の目が届かないのをいいことにして髪の毛を引っ張られてそのまま引きずり回された、石をぶつけられる事などは度々で、ある日は、みぞおちの辺りに拳のパンチをくらい、あまりの痛さに意識が無くなったこともあった。学校では誰とも口を聞かず、特に先生にはなかなか懐かない子で、そのくせ休み時間などに同級生が先生と楽しそうに遊んでいるのを見て羨ましく思ったものである。ある時、担任の女性教師が一人で廊下を歩いているのを見つけ、思い切って後ろから抱きついた。しかし、それは今でも心が痛む出来事になってしまった。先生は驚いたらしくて、私を見たとたんに、「なに!この子は、嫌ネエ」と言ったのである。教室まで一緒に行ってもらいたかっただけなのに、私はそこに立ち止まってしまった。先生はどうしてあのような態度をとったのか、今考えても 理解に苦しむ。その後は子供心にも気まずくなり、そのまま授業中にもかかわらず、家に帰ってしまったのである。しかし、家に帰って母に告げようと思ったのだが、先生に無視された自分が恥ずかしく「お腹が痛い」と嘘を言った。その事は中学生になるまで母には言えなかった。いじめや甘えられる相手のいないことは幸か不幸か私を強くしていったようです。いくらいじめられても悲しいと思うどころかどうしたら仕返しが出来るがいつも考えている子供でした。じっくり考え自分の立場をなんとか好転させたいと思うのは子供の頃から変わらないようです。
母は相変わらず明るく私たちを愛しそうに眺め時には叱りながら月日は経っていった。そんな平和な日々が流れていたある日の夕方の事である。
外が騒がしかったので母と何事だろうと言っていると近所のおかみさんが「この家の人間だと言っている女の人が太鼓を叩いて大声でわめいているよ」と知らせに来た。驚いた母と私が急いで表に出てみると人だかりの中に髪を振り乱し真っ青な顔をした女が物凄い形相で大太鼓を叩きまくっていた。
 母はその人を見るなり「梅ちゃん」と言ってしばらく茫然自失になっていると大太鼓の皮が突然破れハルちゃんはその場で気を失って倒れたのである。
 その女性こそ祖母と母が札幌に来て間もなく最悪の生活をしていた頃に男と駆け落ちをした姉の梅だった。数時間が経ち正気に戻ってから聞いた話によると母に会いたくて近くまで来たが昔に家出をして手紙の一通も出していないしなかなか家には来れずうろうろしていたところ自分の信仰している神様のお祭りがあったので太鼓を叩かせて貰っていたと言う。しかし有難いことに神様が自分にのり移ってくださったというのである、そしてしばらくこの家に自分を置いてほしいと言うのである。母は「どんなことをして私たちを捨てて行ったか考えてごらん、おばあちゃんが死んだ今になって現れるなんて卑怯だよ」といって目を真っ赤にしながら恨み言をいった。そして梅おばちゃんは帰っていった。梅伯母さんが家出をしないで、一緒に居てくれたなら母は遊郭などに身を沈めずに済んだものを、怒りはしばらく収まりませんでした。
何の神様かは分からないが子供心に神様を信じるとあのような大太鼓の皮まで破いてしまうような力が出て、あんな恥ずかしい形相を人様に見られるのかとその時から信仰とはなんと恐ろしいものかと思った。
私の次に養子に来たのが、店に食材を卸しに来る18歳のうら若き青年だった。家に来るといつも私たちと遊んでくれていたのだが、我が家には男手がなかったので力仕事や梯子が必要な高所作業などをして帰っていくこもあった。ある時から「お兄ちゃん」と呼ぶように突然母からいわれた。姉と私は驚いたが本当のお兄ちゃんになってくれるのが嬉しかった。兄は大木家の次男で両親と上手くいっていないと常日頃母に相談していた。急に家族が増えにぎやかになった。兄の名は信夫と言った。ギターが上手で歌も上手くいつもアパートの物干し台に上がって今で言うギターの弾き語りを♪伊豆のやーまーやーまー、月あーわーく♪と、よく私たちに歌って聞かせてくれた。
私も姉もお兄ちゃんが大好きだった。夜は姉と兄と、3人で枕を並べて寝ていた。ある日の夜中、私は下半身に違和感をもち目覚めた。するとお兄ちゃんはくるりと背中を向けて「母さんに言うんじゃないぞ」といった。内緒にしろということは悪いことに決まっている、と思った私は 翌朝早速母に「体を触られた」と告げると母の表情が驚きで引きつった、さぞ困ったことだろう。借家のせまい家だったので母は監視のため自分の部屋に兄を寝かせて私を守ってくれた。何しろ子供だったのでそれがどれだけ重大な出来事だったのかすっかり忘れて毎日兄の歌を聴いたりお転婆な私は相撲をとって遊んだ。
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