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養母の凄い人生

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その後どれくらいの月日が経ったのか太陽がまぶしい季節であった。私は親戚らしき家に大人子供を合わせて十人くらいの家族の中にいた、その家族はみんな明るくて、食べ物はお腹いっぱい食べられた。昼は家族大勢で田んぼの仕事に精を出していた。大人たちについて行った私と子供たちは畦道を走り回りグスベリを摘んで食べたり、クローバーを摘んで首飾りをつくったり、年寄りには稲わらで虫や鹿などを作ってもらって遊んだ。田んぼに行かない日は家の庭でニワトリを追ったり子馬に乗せてもらったりして遊んだ。幼い頃の記憶のなかで数少ない楽しい思い出である。しかしそれは明るい間だけのことで、夜の闇が訪れると私に一生消えないつらい記憶を植えつけることになる。
10畳ばかりの部屋に子供達だけが横に並んで寝るのだが、私は汽車の汽笛が遠くで“ポー”と聞こえるとよく目を覚ました。そしていつも「母さんがあの汽車に乗って迎えにきた」と思うのである。眠い目をこすりふらつきながら薄汚れたカーテンを開けて外を見ると暗闇の向こうに夜汽車の窓明かりが点々と動いて消えてゆく「きっとあの汽車で母さんが迎えに来てくれた」そう思うのである。
今度は耳を澄まして足音を待つ。いつまでたっても足音は聞こえず、聞こえてくるのは虫の音と蛙の泣き声だけ、外は真っ暗、ただ蛍の青白い光りだけが一面に舞っていた。あきらめてまた布団にもぐり込むと涙があふれてきたが、子供心に他の子ども達に泣いていることを悟られまいと声を押し殺して泣きそのまま眠ってしまうのである。この時から私は蛍が嫌いになったような気がする。七十才になった今でも蛍を見ても綺麗だというよりはなんと寂しい光であろうと思う。
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まだ乳飲み子だったと思うのですがあまりの恐怖だった為に記憶に残っているのでしょう。こんな恐ろしいことがありました。実母は私を背負って豪雨の山中を歩き川にさしかかった、川は増水し茶色の濁流が橋げたを今にも押し流しそうだった。私を背負った母はよほど帰路を急いでいたのであろう。その恐ろしい濁流に架かっている木造の橋を渡ったのです。雨は私の顔を伝って胸までびしょ濡れでした。橋の半ばまで来たときだった突然体が、スーツと濁流の中に飲み込まれた。橋が崩れ落ちたのです。気がついたときには、薄暗く狭い病院の診察台に寝かされていた、実母は横たわっている私に覆いかぶさるようにして抱きしめて「ごめんね、、、ごめんね」と泣きじゃくっていた。たぶん親子共々あの濁流に流されて溺れ、どなた様かに助けられたのだろう。私の右太腿には今でも5センチほどの手術傷があるが、養母トキコはその傷は多分その時の注射が化膿して手術したときのものだろうと言っていた。夕張の記憶はそれが最後です。
おばあさんの家の向かい側に大きなお寺があって火事になりました。それから何ヶ月か経ったのだと思いますが、実母と私は2,3人の大人たちと小型トラックの荷台に乗って暗い山道を走っていました。着いた先は長屋のような家でそこには3,40歳位の男性が居ていつも酒を飲んでいたように思う。その家には以前に別れた実姉の明子が居たのが以外だったが子供心に大変うれしかったのを覚えている。しかし、その男に気を使ってか、ある夜などは、母はおにぎりを姉と私に持たせて、布団の中で食べるように急き立てた。真っ暗い布団の中で姉とくすくす笑いながら食べていると、布団がめくられて母が、「しっ」と口に人差し指をあてて、男のほうを見やった。その男が私達姉妹の本当の父親だと言うことは後から養母に聞いて分かったことである。そこは夕張の炭鉱労働者の住宅だったそうだ。後年、夕張市制が破綻し毎日のようにニュースになったある日のこと、テレビに地元の画家だという人の油絵が映し出され一瞬で消えたのですが、その絵は私たち親子が暮らしていた炭住の長屋のようでした。機会があれば夕張に行ってそれらしき場所を尋ねてみたいと思っております。話は戻りますが、実母はその男を恐れていたようでした。度々酒に酔って暴れていたように記憶している。また、その男にうるさい!と怒鳴られて玄関まで逃げた私に一升瓶を投げつけました。それからは男が家に居るときは隠れるようにしていたものです。
これが養母との初めての出会いです。私を育ててくれた母です。家に行くと女の子が居り「あんたのお姉ちゃんだよ。仲良くするんだよ。良子ちゃん、この子があんたの妹の和江ちゃんだよ。よく面倒を見てあげて頂戴ね」と言うと姉は嬉しそうにニコニコしながら「遊ぼう」と手をとって奥の部屋に行き早速おままごとです。一人っ子で寂しかったのでしょう。
家族は母と姉そして私と女3人でした。トキコは夜になると家の一角で小さな一杯飲み屋をやっていて結構繁盛していました。酒の入った母は朗らかでちょっと色っぽく、山田五十鈴似の美人でした。
私はそんな環境のなかで何の違和感もなく毎日が楽しく過ぎ、近所の子供たちとも遊ぶようになり、実の母のことは忘れていったように思います。実母の記憶があるのは札幌のお婆さんと暮らしていた頃、母が時々きれいな色のドロップやその他食料を持ってきてくれたが、またすぐ居なくなってしまう。私はかなり気が強かったらしく、近所の男の子とよく喧嘩をして怪我をさせたりしておばあさんに柱に縛り付けられ手の甲にお灸を据えられた。
トキコにここに来るまでのことや実母のことを聞いても「山のおばさんが転々と住所を変えたので分からない」の一点張りで、その後も教えてもらえませんでした。私の出生から5歳までの事は自分の記憶を辿るしかないのです。現在、私は70歳になりますが、そろそろ物忘れもするようになり自分の事を覚えているうちにと思い母のことと同時に文書にしているのです。
昭和23年、3月頃の札幌は馬にソリの着いた荷車をひかせて公道を運行していました。そのために馬糞と泥
水の混じった雪解け水が市内のいたるところに溢れておりまし。
その汚れた水が私の履いていた代用ゴム長靴から凍みこんで来ました。代用ゴムとは戦後のものが無い頃に作られたもので、ズッグ靴のような布にゴムを塗り込んで防水したものです。狸小路の商店街は活気があって人であふれておりました。その中に私は4.5人の女性に囲まれて立っていました。一人は私の養母となるトキコ、遊郭時代から友人の時江さん、高島のおばさんです。
トキコ達はすぐに私が寒そうだからと帽子店に入り赤いフエルトにピンクの毛のふち飾りがついた三角帽子を買ってかぶせてくれました。そして外に出るとトキコは小さな私の肩を抱えるようにしてしゃがみ込み「今まで探せないでごめんね、かあさんね、お乳が出なかったので山の知り合いにあんたを預けたんだよ。そしたら、そのおばさんがあちこち転々と引っ越してしまって、あんたを探せなくなってしまった。苦労したんでしょ、本当にごめんね」そういって私を抱きしめました。事の成り行きを理解できない私はトキコの顔を見ようとしたとき彼女が泣いているのに気がつきました。そして「もう何処にもやらないからね。これからはずっと一緒だよ」と言ったのですが、私は心の中で「嘘だ!今度はこの人に預けられるんだ」と叫んでいたのです。
私が5才になった早春の出来事です。
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