忍者ブログ

養母の凄い人生

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今までは通学に三十分かかっていた小学校から近場の中学生になりました。放課後になると父が使わなくなった古い自転車を校庭に持ち込み練習をしていたのですがやっと走れるようになった頃どうしたことが突然前のめりに転び、顔から地面に叩きつけられたのです。手足や顔にかなりの擦り傷を負い、血を滲ませながら家に帰ると母は驚いて叱りつけました。そしてこう言ったのです「家は貧乏だから嫁に行くときに持参金なんか持たせられないよ。せめて五体満足で顔に傷なんか作らないで嫁に行って頂戴!」そして「今後いっさい自転車は乗るんじゃない!」と、それ以来自転車は取り上げられてしまったので、若いころは車生活でしたが今の年では免許証は返還してしまいましたので不便この上もなくホームセンターや病院など30分以上かかるのですが息子は健康に良いから歩きなさいといいますので仕方なく歩いております。そんなわけで娘たちの容姿には何かと気を使う母で日焼けをしないようにとか女は口を開いて寝るなとか、立ち居振る舞いもうるさかった。ある時父の先妻の息子つまり私たちの義兄弟にあたる人が2,3日泊まりに来ていました。いつもの朝のように着替えようとストーブの周りでパジャマを脱ぎかけたときの事です突然デレッキ(鉄製で石炭ストーブの灰を掻き落とすもの)で「男の前で着替えるな!」と太もものあたりをバシッと叩くのです。私が驚いて寒い奥のほうに隠れるとその人に「あんたも家の娘の裸をジロジロ見ていないで席をはずしなさいよ!」と言われて気まずくなって帰っていきました。その後は父に「いやらしい!にやけて女の子の裸を見ているなんてあんな時お父さん何とか言いなさいよ!」と言うと父は「カコはまだ子供なんだからいいじゃないか、今からそんなこと意識させないほうがいい」と父、母は怒り狂ったように「もう胸だって膨らみ始めているんだからそんな呑気なこと行っていられないよ!お父さんが無神経だからあんな男に育ったんだよ!」と先ほど帰った人を貶すので父も自分の息子の悪口を言われて怒り出しそのまま学校へと出勤していきました。思春期の私はその時はじめて自分が年頃であることに気づき身体の変化を大きな声で引き合いに出されて大変に気分が悪くそれからしばらく母とは口を利きませんでした。思った事をはっきり言う母でしたので夫婦喧嘩は日常差万事でしたがそれでもすぐにケロッと何事も無かったように父に甘えていました。父は母より13才年上でしたので可愛かったのでしょう喧嘩の相手になる事も無くいつも母の我が儘をにこやかに聞き流しておりました。
PR
内職に没頭してしまって、更新できませんでした。さて入院の続きですが。
ある日のことです。ベッドの枕もとの窓がコツコツと音がするので開けてみるとなんと、そこには雑草の茂みの中に母と姉がニコニコ笑って隠れているではありませんか。唖然としている私に二人はシーッと口に人差し指をあててお菓子や果物などを次々と鉄格子の間から差し出し「見つかると大変だからもう帰るネまたすぐ来るから病院の言う事をよく聞いて早く治しなさいネッ」と言うと二人は茂みの中を隠れるようにして帰って行きました。私は伝染病の為家族とも面会謝絶なのでは母たちは病院の塀を潜って中に入り雑草の中をかき分けて私に会いにきてくれたのでした。退院してから病院のベッドは沢山あるのにどうして私が寝ている場所の窓が分かったのか母に尋ねると入院手続きをする際にそれとなく事務員に病室の様子を聞き、すでに母の胸算用ではコッソリと面会に来るつもりで子供が退屈しないように窓からなにが見えるのか聞いたそうです。すると「病室は右手にあり草むら越しに大通りかあって電車も通るし外を見ていると退屈しない」と言ったのでしめたっと思ったとのこと、それを聞いたわしは改めてこの人は何と頭の良い人かと感心したのです。すると母は自慢げに「世渡りの上手な人は常に先々のことを考えながら人の話を聞いたり行動したしたりするから窮地に陥らない」と教えてくれたのです。そんな教えもあって私がこの年まで子供を抱えて知らない土地土地で生き延びてこられたのかと思います。
 昭和27,8年ごろ日本人は戦後の苦しい生活から完全に脱し食料品や衣類など生活用品はお金さえ出せば手に入る世の中になりました。遠足や運動会など学校のイベントには子供たちが喜びそうなおやつを沢山持たせてもらいました。ところがです、そのころ庶民には高価で普段はなかなか食べられなかったバナナを運動会に母が持たせてくれたのです。姉も一緒に食べたのですがその翌日から私だけお腹がよじれる様な激痛に襲われました。当然学校は休んで寝ていたのですが寝ているよりトイレでしゃがみこむ時間のほうが多いので心配した母が鼻汁のなかに短い絹糸を混ぜたような便を見て「これは只事ではないから病院へ行こう」と家の近所に新しく出来た国立の病院へ連れて行かれました。そしてその後が大変でした。家に帰ってからは家中の食料品を全て処分し、店は営業を停止をし、保健所の車が来て家中を消毒していきました。母はいつにも増して優しくなり悲しそうに私を見つめて「どうしてカコちゃんだけこんなことになるのかね、可愛そうに、あんた赤痢だって、もう少ししたら車が迎えに来るから早くても2週間は誰にも会えない病院でお腹の菌が居なくなるまで入院しなければならないよ。お姉ちゃんにも母さんにも会えないけれど我慢して赤痢を治すんだよ」と涙声で言うのです。私は自分のせいで店も休み、家の中の食べ物がすべて捨てられ、病院の費用やこれからの入院費、さらに家中が消毒臭くなってしまった事などで申し訳なさと怖さで胸が押しつぶされそうになっていました。そこへ救急車が到着して母と一緒に丸山方面の隔離病院へ搬送されました。母は医者の話を聞いていましたが私だけ担架で病室へ運ばれベッドに寝かされました。その部屋には6人ほどの入院患者がおりました。病室は古い木造の建物でしたが窓が頭と足のほうにあり、寝ていても廊下越しに、周囲に樹木が見られて美しい緑色の陽が差し込む明るい病室でした。もう母は帰ったのかと思っているうちに前日の寝不足もあって眠りに就いたようでした。翌日からは幼児期に他人の家を転々としたせいでしょうか、家族に会えないにもかかわらず寂しさはありませんでした。それよりもお腹の痛みは薬で抑えられているので体調は普段とあまり変わりなくおやつが食べられなかったので毎日の食事の時間が待ちどうしかったのを覚えております。
弟を苛める私に母はどうしたものかと相当悩んだようです。しかし母の私に対する愛情はこれまでどおり変わる事はありませんでした。親の心子知らずと言うのでしょうか小6になった私はその頃人気の絶頂期だった美空ひばりや中村錦之助のブロマイドを集める事に夢中になってしまい、お使いを頼まれると預かったお金を猫ババするようになりました。昔はスーパーなど無くて肉屋とか魚屋とか小さな個人商店が殆どで商品は量り売りをしておりました。例えば肉を100円買うように言われると95円分買って残り5円をピンハネして貯めておくといった具合で麺屋や、乾物屋、酒屋といった所まで中途半端な金額で買うのですから売るほうにすると面倒なことこの上もなく、ついにある日のこと姉が買い物に行った際にそこの商店主が「妹さんが買い物に来るときは計算に苦労する」と言われブロマイドが菓子箱いっぱいになった頃ついに母に知られる羽目になりました。当然頭に拳骨が飛んできました。今のように便利な機能のついたレジスターも電卓も無い頃ですから計算が大変だったと思います。そして母に言われて姉が私を連れ商店を一軒一軒お詫びして回ったのでした。そして姉は「あんたの小さいときもこんな事あったよね」と言ったのです。当の本人はすっかり忘れていたのですがその時は私が養女に来てまだ間もない時の事でした。きっと情緒が不安定だったのでしょうか1回だけ寝小便をしてしまったのです。すると母は私にシーツをまとめて背負わせてさらに背中に“ワタシハ オネショヲ シマシタ”と書いた紙を貼り付けてやはり今と同じく姉を付き添わせ町内を一周させられたのでした。姉はとても恥ずかしかったのでしょう、オイオイと声を上げて泣き私も泣きながら二人はしっかりと手をつないで町内を歩いた事を思い出しました。その時も心強く思ったのですが姉は優しい性格だったので心が和む存在でした。
心を鬼に
私が養女に来たときとは違って満は私以外の家族には良く懐き可愛がられていた。その事がいっそう嫉ましさを駆り立てた。満は小学校に入学したがよく学校でお漏らしをして途中で帰されてきた。お漏らしが続いたあるとき担任が一緒についてきて「無口なのでいじめの対象になっている。便所にも怖くて行けないようで我慢していて授業中にお漏らしをしてしまう」と言うと母は「家で甘やかしたのがいけなかった」と言って担任に謝っていた。それまでお漏らしをして帰ってくる満を仕方がないと言うような表情で後始末をしていた母でしたがある日またパンツに汚物を付けて帰ってきた満の姿に突然切れていきなり着ているものを脱がせそのパンツを顔に押し付け「こうされてもまだお漏らしをしてくるのか、それとも先生に勇気を出して手を挙げて便所に行かせてもらうか、どっちにする!」と言いました。それを見ていた私は「うゎっそこまでやらなくても」と思いましたが、満は汚物だらけの顔で口を空けたまま激しく泣きじゃくり「先生に言います」と母に約束をしました。すると母は抱き寄せて「これからずーっと生きて行く時にネ自分の思っている事をはっきり言えないと幸せになれないんだよ」と顔を拭きながら諭しているのです。私も弟の汚れた物を片付けながら顔を見ると可愛そうでたまらなくなりました。この子は父母にもよく懐きいつもニコニコして素直なのに対して私は反抗的で笑顔もあまり無い子でした。それでも両親は必死に何とか人並みに育つように接してくれている、もう弟をいじめるのは辞めようと心に誓い今までひどいことをしたという気持ちでいっぱいになったものでした。やはり私は恥ずかしい事に人の幸せを嫉むひねくれた性格の子供だったのです。
Copyright ©  -- 告白 --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]