忍者ブログ

養母の凄い人生

[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

忍び寄る病魔
 母は本当に父の事が好きだったのだと思います。父が帰宅すると学校給食の手伝いに来ていた奥さんたちに嫉妬したふりをして「女の匂いがする」と言ってカバンを受け取ると背広に鼻を押し付けて甘えるのでそれを見ている私たち姉妹はよく母を冷やかしたものです。あの時代に子供たちの前であのようにイチャツク親も珍しいと思います。春から秋にかけては朝起きると二人で猫の額と言っていた狭い10坪ほどの庭に出て草木の芽が出たとかいつ頃になったら花が咲くとか言いながら朝食前に草を取ったりして畑で一仕事するのが日課でした。
そんな平和な日々が3年ほど続いたでしょうか、母の体調は少しずつ弱っていきあれほど嫌がっていたのですが、ついに手術する覚悟をしたようです。子宮筋腫の摘出をこれ以上延ばせなくなったのです。私が高2になって間もなく母は札幌医大で手術をする事になりました。家族にとって手術をするということは大変恐ろしい事でした。私は姉ともしこのまま母が家に帰ってこれなくなったらどうしようと毎日話し合いました。姉は最初に学校推薦で働いた学校近くの市場の中にある食料品店の店員をしておりました、その頃私がアルバイトをしたくて姉と一緒に働かせてもらったのですが、その職場を見てがっかりしたのです。まさか母があんなにも苦労をして中学校から一貫して私立の女子高に通わせ習い物もさまざまさせてそれが市場の中の食品店の店員?と子供ながら不条理を感じずにはいられなかったのです。姉の成績が悪くて他に就職できなかったわけではありません。そんな思いを抱いている私に姉は気づいていました。一緒にアルバイトに通った時に電車賃が無く3キロほどの距離を二人で歩いた事もありました、夏休みの暑い日でしたが小さい頃に母から聞いたおばあちゃんと小樽から札幌まで歩いた話を思い出し汗を拭きながら黙々と歩きました。やはり姉も今の職場は嫌だったのでしょう、事務の仕事を探しをしていると言っていたのですが間もなく姉はそこを辞め、亡くなった兄が働いていた家の近くに九州に本社のあるゴム製品の製造会社の事務員の仕事が決まり私たちは安心したのも束の間でしたが母の手術がきまった時には今までの職場と違って通勤時間が短いしお給料も高いしまた近所なので何かにつけて良いことずくめで本当に良かったと思いました。しかし母が入院となると私たちの不安は募るばかりでした。
PR
COMMENT
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
 管理人のみ閲覧
 
Copyright ©  -- 告白 --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]