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養母の凄い人生

カテゴリー「母」の記事一覧
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 私の高校受験の日が来ました。3日前あたりから両親の目を気にして一応受験勉強らしきものをしたのですがその気が無いので頭では他の事を考えて徹夜をしました。その頃の札幌には私立の女子高は8校しかなく姉は上から3番目と言う評判の女子高をこの春卒業予定で私は下から2番目と言われている女子高を受験しました。高校が足りない為にその女子高の合格率は4人に一人と言われており当然私は最初からあきらめておりましたので開き直って怖いものはありませんでした。筆記試験は眠いばかりでちっとも分からないし、英語、数学は白紙に近い状態で提出し、いよいよ面接の時間が迫ってきました。面接を受ける組が4人一組と決められていきました。皆は緊張して待合室の教室ではあちらこちらでざわついて私たちの組には同級生が一人いたのですが見ると歯をガチガチ言わせて喋ることも出来ないほど振るえているのです。どうしてそんなに緊張するのか私には理解できない事でした。今思えば当時の私は相当にふてぶてしい女の子だったようです。
 そしていよいよ面接が始まりました。先生が4人、私たちも4人長机を挟んで向かい合い一人一人いろいろ質問が始まり私の隣の同級生まできましたがやはり待合室に居たときと同じくガクガクと震えて答えられず、私の番が来ました先生の質問は「どうして数学を白紙で提出したのか」と言う事を聞かれ私は進学の意志は無く両親に説得されて3日前からやっと勉強に取り掛かり徹夜をしたので眠たくて回答が出来なかったこと、次の時間が国語だったので少しは自信があったのでそのため眠ってしまった事を臆面も無く話すと先生は「この学校を希望校に選んだ理由は?」というのです、私は「両親は姉と同じ高校に行かせたかったのだが私の頭が付いていけないのでここにしました」とまたまた臆面も無く答えたのでした。「でもここも筆記試験は答えられなかったんだよね」「はい、すみませんでした」という感じで面接は終わりました。家に帰って両親に受験の経緯を話すと二人とも口を揃えて「こりゃだめだ」と行ったきり後は無言でした
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この頃の母は体調の優れない日が多く寝込む事が多くなりましたが、冬場は燃料の節約、夏は太っていたので夏バテで寝て過ごす姿を家族は見慣れてしまっていました。お店はもう完全に廃業しました。2間ばかりの長いカウンターが古新聞や季節外れの生活雑貨が積み上げられ乾ききった板敷きの床は迷い込んできたノラ猫クロの格好の運動場となっていました。私たちは動物好きで1年前までモクという薄茶色の犬を飼っていていつもラーメンスープの出し殻を与えていたのですが、私がそれを持っていくといつも身体をくねらせ、フサフサのしっぽをふって出てくるのにその日は物音ひとつしないのです。嫌な予感がして雪の小山を滑らないように長靴の踵に体重をかけてそっと近づいて小屋をのぞくと背中を丸くして横になりビクとも動かないモクの姿がありました。雪の降りしきる中を私がいつまでも家の中に戻らないのを心配した母が出てきて「可哀想な事をしたね。餌をきちんと上げればよかったけれどノラ犬で居るよりは幸せだったよね」と話し掛け、硬くなったモクの身体を擦りながら涙と鼻みずを拭ったのでした。最近のブームのようにペットを連れて散歩する人をその頃は殆ど見かける事はなく、たいていの犬は家の外に繋がれっ放しの雑種犬が多かったようです。ドッグフードももちろん無くて家の残飯を食べさせるのが普通でした。我が家はラーメン屋だったのでスープの出がらしは豚の骨や玉ねぎや人参が入っていて栄養豊富で犬の餌としては良いと思われていました。しかし最近判ったことで、ねぎ類は犬に与えると貧血を引き起こすと知り、それを常食として与えていた我が家は愛犬を自分たちの手で殺してしまったことになる。最近の研究で分かった事とは言え、知識が無いという事は何と情けない事かと思う今日この頃であります。
 中学卒業後は高校へ行く気持ちはさらさらありませんでした。
その頃の親友が中学校を卒業したら憧れのバスガイドになりたいと、いつも休み時間になると夢を見るような眼差しで身振り手ぶりよろしくガイドの真似をしたり歌ったりしてクラスの皆を楽しませるのを見ながら、私もついつい自分の将来をきれいな着物をきてお華や日舞のお稽古に通うお嬢様のような自分を夢見ていたのでした。

 その頃はまだ気がつきませんでしたが私がいつも空想していた姿は母が姉に求め続けたものだったのです。
親に経済力も学歴も無く自分自身も勉強が嫌いで夢中になれるような趣味もなく、親からも諦められている子供の行く道はただ世間の荒波に流されてゆくだけです。 しかし進路を決めなければならない頃になると両親は高校進学を私に義務付けたのでした。 それまでは私の勉強嫌いを諦めの気持ちで居た母まで「お父さんの顔が立たないから高校へ行って」と言うのです。 

 そのわけはこうなのです。
母が一人で私たちを育てていた時に姉をお金のかかる私立の中学校へ行かせる事が出来たのに父がいる今、私が高校へ行かなければ父にかいしょが無いように世間から見られると言うのが母の言い分でした。 私は反抗期の真っ只中でしたので「そう見えるのではく、その通りでしょ、こんな貧乏な中から高校へなんか行きたくない」というと父は「頼むから行ってくれ」と頭を下げるのでした。 そうして「高校へ行ってお父さんのボーナスが出たら褒美として千円上げるから」というのです。 その頃の千円は大金でした、なにしろ菓子パンが10円の時代ですから。
 勉強が嫌いな私に母は諦め顔で何も言いませんでした。
姉は本が好きで父がそれを嬉しく思っていてよく買ってあげていました。 そんな姉に母は「小説本ばかり読む女はろくな者にならない」と言うのです。それは家庭的ではないという意味だったのです。そう言われると姉は夕方になっても小説を読みふけり母が手伝ってと言っても聞こえないふりをして動こうとしないのです。そんな訳で掃除や米とぎ、洗濯はいつも私が手伝わされたので家に居るのが嫌でした。中学校を卒業したら家を出て働きたいと思っていたのです。そしてある日、学校で書いた作文の内容に担任の先生が心配をして母に報告に来たのです。すると母は先生に「ご心配をおかけしました」とたたみに頭が付くほど平身低頭して誤り先生は帰っていきました。まさか作文の内容が母にバレるとは思ってもいなかった私は自分の将来について本当の気持ちを書きました。

 それは、私は養女です、に始まって家が貧乏なので早く家を出たいことや自立して家に迷惑をかけないようになりたいなど、そして生活の手段としてホステスとして働きお稽古ごとを色々やりたい事も書いたのでした。そして作文を母に手渡し先生は帰っていきましたがその後は母の前に正座をさせられ、当然のことながら大変叱られ「女給(当時はまだホステスという言葉はありませんでした)なんて仕事はよほどしっかりしていないと男に騙されてぼろぼろになって捨てられるだけ、特にアンタみたいにボーッとしているのは火を見るより明らか、チョット位男好きのする顔をしているからといって自惚れるんじゃないよ」と言われ私はある決心をしました。
今までは通学に三十分かかっていた小学校から近場の中学生になりました。放課後になると父が使わなくなった古い自転車を校庭に持ち込み練習をしていたのですがやっと走れるようになった頃どうしたことが突然前のめりに転び、顔から地面に叩きつけられたのです。手足や顔にかなりの擦り傷を負い、血を滲ませながら家に帰ると母は驚いて叱りつけました。そしてこう言ったのです「家は貧乏だから嫁に行くときに持参金なんか持たせられないよ。せめて五体満足で顔に傷なんか作らないで嫁に行って頂戴!」そして「今後いっさい自転車は乗るんじゃない!」と、それ以来自転車は取り上げられてしまったので、若いころは車生活でしたが今の年では免許証は返還してしまいましたので不便この上もなくホームセンターや病院など30分以上かかるのですが息子は健康に良いから歩きなさいといいますので仕方なく歩いております。そんなわけで娘たちの容姿には何かと気を使う母で日焼けをしないようにとか女は口を開いて寝るなとか、立ち居振る舞いもうるさかった。ある時父の先妻の息子つまり私たちの義兄弟にあたる人が2,3日泊まりに来ていました。いつもの朝のように着替えようとストーブの周りでパジャマを脱ぎかけたときの事です突然デレッキ(鉄製で石炭ストーブの灰を掻き落とすもの)で「男の前で着替えるな!」と太もものあたりをバシッと叩くのです。私が驚いて寒い奥のほうに隠れるとその人に「あんたも家の娘の裸をジロジロ見ていないで席をはずしなさいよ!」と言われて気まずくなって帰っていきました。その後は父に「いやらしい!にやけて女の子の裸を見ているなんてあんな時お父さん何とか言いなさいよ!」と言うと父は「カコはまだ子供なんだからいいじゃないか、今からそんなこと意識させないほうがいい」と父、母は怒り狂ったように「もう胸だって膨らみ始めているんだからそんな呑気なこと行っていられないよ!お父さんが無神経だからあんな男に育ったんだよ!」と先ほど帰った人を貶すので父も自分の息子の悪口を言われて怒り出しそのまま学校へと出勤していきました。思春期の私はその時はじめて自分が年頃であることに気づき身体の変化を大きな声で引き合いに出されて大変に気分が悪くそれからしばらく母とは口を利きませんでした。思った事をはっきり言う母でしたので夫婦喧嘩は日常差万事でしたがそれでもすぐにケロッと何事も無かったように父に甘えていました。父は母より13才年上でしたので可愛かったのでしょう喧嘩の相手になる事も無くいつも母の我が儘をにこやかに聞き流しておりました。
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