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養母の凄い人生

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一気に私の高校時代へと来てしまいましたが、小5の時に父が来てから少しは生活が楽になったような気がしたのですが、実態はそうではなかったのです。
父が学校給食の主任をしていたお陰で給食で余ったホワイトシチュウやジャムとかパンなどを持ち帰えって来るようになりました、規則は今のように厳しくなかったようです。私は外で遊んでいても父が風呂敷包みをぶら下げて帰ってくる姿を見つけるとすぐに駆け寄っていきその手から風呂敷包みを奪い取るように受け取ると一目散に家に駆け込んでいくものですから父は「カコは父さんが手ぶらに帰ってくると無視をする」と言って笑われたものです。父の給料は毎月きちんと貰っていたようですが母は朝食や昼食をよく抜いていたらしくて父の持って帰った給食の残り物を武者ぶりついて食べていた事がよくあり母は父と一緒になる前に借金をしていたようでした。たぶん姉の学費や生活の為に高利貸しからの借り入れだったのでしょう。ある日のことです。上品そうな白髪頭のスラットした奥様風の人が母と話をしておりましたが次第にその方の語気が荒くなったので借金取りだと気が付きました。
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私の入学式が近づいてきました。4月の札幌はまだ寒く気温は12度もあれば暖かいほうでした。そんななか学校規定の制服や鞄やこまごまとした物を何一つ買ってもらう事が出来ません。私の頭の中は「どうするのだろう」とその事でいっぱいでした。
入学式の前夜母が姉の着ていた制服の白線を外しているのです。学校によってセーラーカラーに縫い付けている白線の太さが違うのです。姉が3年間着用し色あせて赤紫に変色したセーラー服を私は着なければならない羽目になりました。こんなことになるだろうと覚悟はしていたものの新しいものは何一つとして買っては貰えずそれどころか学校規定のものすら身につける事が出来ないまま入学式に臨むことになったのです。お下がりの破れた革靴、手縫いでぶつぶつと縫いつけた白線のセーラー服、鞄はと言うと豚の一枚革を靴ヒモでざっくりと縫って手提げにしたもの、今風のファッションのような鞄を持っての通学です。皆からジロジロと見られとても恥ずかしい思いをしながらの通学でしたがそれも日が経つに連れ慣れて高校生活も楽しくなっていきました。学校も理解があり皆と違う服装にも家の事情を知って特別に許可書を出してくれました。2年生になると今度は教科書が買えないのです。あの時の衝撃といったら、いっそうの事死んでしまいたいと思ったのですが何事も時が過ぎれば何とかなるものです。教科書がそろっていても皆に勉強がついていけないのに最悪だと思ったのですが、そうではなく、教科書があっても勉強をしなかった!が正しいです。そのように考えた途端に気が楽になったのを覚えております。小さい頃から苦境で育ったためか、何とかならぬかと色々考えたり空想したりするのが好きな子でした。そして結論として授業中は先生の話をしっかり聞かねばと言う思いになりそのうちに日本史や文学など授業が段々面白くなってきたのです。「なぁんだ勉強って面白いじゃないの」と思い始めるようになって2学期の期末テストになりました。科目は忘れましたが日本文学か国語系だったと思います割と簡単にできたのです。いつもテストの結果は体育館に張り出されますがどうせ最下位に近いので見たことも無かったのですが友達が凄い事になっていると言って私の手を引っ張って体育館に連れて行くので張り出された順位表を見ると学年の上位から4,5番目に私の名前があるではありませんか、何かの間違いではないかと思い信じられなくて呆然と眺めしばらくしてわれに返りまた見るとやはり自分の名前があるのです。今でも夢か幻かと言う感じです。
姉は高校を卒業して就職をしました。初めてのお勤めで姉より母のほうが興奮しており身だしなみや化粧などに手を出して直したりして「もういいから」と姉にうっとうしく思われる始末です。そして家を出てほんの5,6歩あるいたのも束の間で何かにつまずいて膝をついて転んでしまったのです。見送っていた母と私はハッとして冷や汗の出る思いでした。社会人らしい服装やハンドバッグ、靴すべて母が無理をして買い揃えたものでした。その頃はナイロンの靴下は高級品だったのですが今のように丈夫ではなくて履く時は荒れた手でナイロン糸を引っ掛けない為に薄い手袋などをして履くのが一般的でした、ですから舗装もしていない地面と接触したのですからひとたまりもありません、姉の膝小僧には血がにじみ、始めてはいたナイロンのストッキングは見るも無残にズタズタに引き裂かれスカートには泥が付いた姿を見て私は何となく嫌な予感がしてそれは前途多難というか、もちろん姉のことは可哀想だと思っていました。そして時間がないと言って泣きそうな顔で姉は家を後にしました。母は「本当にお姉ちゃんは落ち着きがないから困るんだよネ、またストッキング買わなきゃ、先生が言った通り金食い虫だよ、あの子は」と言うのです。それは姉の幼かった頃は身体が弱く病院に行くと医者が「オッ、金食い虫がまた来たナ」と言うほどよく病院通いをしたそうです。そんな事を聞いても分かるようにちょっとしたことでも病院へ連れて行くような猫可愛がりに育てた様子が分かります。
試験が終わってしばらくすると あれほど気が進まなかった進学も受験をしたからには友達の目もあるし何とか受かっていれば良いという虫のいい考えに変わり発表の日は新聞が来るのが待ち遠しく、手に取るや否や合格発表の欄を食い入るようにながめるこの根性をどう表現したらよいのだろう。そして奇跡は起こった、私の名前があった新聞に私の名前が載っていた。
奇声を発しながら家族に報告する私に父は「良かったア」と一言いって眼を閉じ、母は胸に手を当てて涙ぐみ「良かったア」と言って座り込んでしまった、私のそれまでの人生でこんなに人に喜んでもらえた事は記憶にない。これは後日談になるのですが高校3年になった4月10日の事、この日は今の天皇陛下と美智子皇后のご成婚の日でした。なぜか当校は休校ではなく朝、通学の電車を降りると青空に花火がドーン、ドーンと響き渡っていました。前のほうを見ると親友のアッコが岡野先生と歩いているので走り寄って挨拶をすると先生が「ウーン今日は天気も良いし皇太子と美智子さんも今日はドーンドーンだな」と意味不明なことを言い「ところで、日野、面接のとき俺はこいつは何かやってくれると思ったけれど3年生になったナ・・・何にも無かったナ」と言うのです。面接試験の質問をしたのがこの先生でした。あまりにも物怖じしない女の子に先生は何を期待してパスさせて下さったのでしょうか。
 私の高校受験の日が来ました。3日前あたりから両親の目を気にして一応受験勉強らしきものをしたのですがその気が無いので頭では他の事を考えて徹夜をしました。その頃の札幌には私立の女子高は8校しかなく姉は上から3番目と言う評判の女子高をこの春卒業予定で私は下から2番目と言われている女子高を受験しました。高校が足りない為にその女子高の合格率は4人に一人と言われており当然私は最初からあきらめておりましたので開き直って怖いものはありませんでした。筆記試験は眠いばかりでちっとも分からないし、英語、数学は白紙に近い状態で提出し、いよいよ面接の時間が迫ってきました。面接を受ける組が4人一組と決められていきました。皆は緊張して待合室の教室ではあちらこちらでざわついて私たちの組には同級生が一人いたのですが見ると歯をガチガチ言わせて喋ることも出来ないほど振るえているのです。どうしてそんなに緊張するのか私には理解できない事でした。今思えば当時の私は相当にふてぶてしい女の子だったようです。
 そしていよいよ面接が始まりました。先生が4人、私たちも4人長机を挟んで向かい合い一人一人いろいろ質問が始まり私の隣の同級生まできましたがやはり待合室に居たときと同じくガクガクと震えて答えられず、私の番が来ました先生の質問は「どうして数学を白紙で提出したのか」と言う事を聞かれ私は進学の意志は無く両親に説得されて3日前からやっと勉強に取り掛かり徹夜をしたので眠たくて回答が出来なかったこと、次の時間が国語だったので少しは自信があったのでそのため眠ってしまった事を臆面も無く話すと先生は「この学校を希望校に選んだ理由は?」というのです、私は「両親は姉と同じ高校に行かせたかったのだが私の頭が付いていけないのでここにしました」とまたまた臆面も無く答えたのでした。「でもここも筆記試験は答えられなかったんだよね」「はい、すみませんでした」という感じで面接は終わりました。家に帰って両親に受験の経緯を話すと二人とも口を揃えて「こりゃだめだ」と行ったきり後は無言でした
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