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養母の凄い人生

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 秋も深まり冬用の漬物も一段落したある日中学校から帰ると父が職場から帰っていて私に母を近くの個人病院へ迎えに行くように言いました。このところ具合が悪そうにしていた母が朝から病院へ行っているだと言うのです。歩いて3分くらいのところをどうして一人で帰ってこられないのか不思議に思いながら病院に行くと母は青白い顔で口元には何かを吐いたような跡が残り乱れた髪の毛を櫛で掻き揚げながら出てきました。もう夕方になっていてこんなに長い時間をかけて検査をしたのかとその時は思っていたのです。
 家に帰ると母は医者から言われたことを父に説明をしていました。子宮に筋腫が出来ていてそれは相当おおきく医者が言うには「像の頭を撫でるより明白」と言われたとのことでした。当然手術をしなければなりませんが我が家の事情がいろいろあってすぐと言うわけにも行きませんでした。その後母の体調は以前よりは少し良くなったようで吐いたりする事も無くなり落ち着いていました。あの出来事は私が大人になってから分かった事ですが、母は検査に行ったのではありませんでした、子供が出来たのですが産める状態ではないので中絶をするために病院に行き、結果として子宮に筋腫がある事が分かったのです。何という悲しい事でしょうか、他人の子供を肉体を張りながら育てて自分の子供ができても産むことが出来ないなんて、そしてとんでもない病気が見つかりお腹にメスを入れなければならないなんて、神様、母がなにをしたというのですか?こんな地獄が現世にあってもいいのですか?でも当時中学生だった私には事実は分からない事でした。
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私は中学3年生になり高校入試の手続きに訳の分からないまま日々が過ぎていったのですが、受験の為の書類に添付する戸籍謄本が必要となり市の出張所に貰いに行きました。帰りの道すがら内容を確認していると“養子”と記してあったのです。分かっていたこととは言えこれは決定的でした、血の気がサーッと引いていくようでした。辛かったです、どのようにして家まで帰ったのか覚えていません。気が付けば家の前に横たえられていた古い電柱に腰をかけ家を背にして周囲が夕日で赤く染める中、背中を丸めて繰り返し紫色に滲んだ手書きのものをコピーした謄本を読み返していました。その文字も暗くなって見えなくなりやっとわれに返った感じで家に入ると母は台所で夕食の支度をしており、私の様子をチラッと見ると「グレるんならグレてもいいんだよ。何もこんなご時世に他人の子供を伊達や酔狂で育ているじゃないんだ」と自分の手元を見たまま私には眼もくれず言い放ったのです。私は「グレるもんか!自分が損をするようなことなんかしないよ。それよりこんな貧乏な家に貰われるぐらいなら施設でも行ったほうがましだったよ!」と言い返したのです。なんとヒドイことを言ったのでしょう。殴られる事を覚悟していた私は悔しさをじっとこらえていた母の横顔を忘れられません。母はとても強い人だったのが私に好きな事を言わせたのです。これが気の弱い女々しい母だったら私は何事にも気を使って性格も変わっていたように思います。母の強さが私を自由奔放に何の遠慮をする事もなしに本当の母に反抗するように思春期を過ごせたのだと思います。
 
この頃の母は体調の優れない日が多く寝込む事が多くなりましたが、冬場は燃料の節約、夏は太っていたので夏バテで寝て過ごす姿を家族は見慣れてしまっていました。お店はもう完全に廃業しました。2間ばかりの長いカウンターが古新聞や季節外れの生活雑貨が積み上げられ乾ききった板敷きの床は迷い込んできたノラ猫クロの格好の運動場となっていました。私たちは動物好きで1年前までモクという薄茶色の犬を飼っていていつもラーメンスープの出し殻を与えていたのですが、私がそれを持っていくといつも身体をくねらせ、フサフサのしっぽをふって出てくるのにその日は物音ひとつしないのです。嫌な予感がして雪の小山を滑らないように長靴の踵に体重をかけてそっと近づいて小屋をのぞくと背中を丸くして横になりビクとも動かないモクの姿がありました。雪の降りしきる中を私がいつまでも家の中に戻らないのを心配した母が出てきて「可哀想な事をしたね。餌をきちんと上げればよかったけれどノラ犬で居るよりは幸せだったよね」と話し掛け、硬くなったモクの身体を擦りながら涙と鼻みずを拭ったのでした。最近のブームのようにペットを連れて散歩する人をその頃は殆ど見かける事はなく、たいていの犬は家の外に繋がれっ放しの雑種犬が多かったようです。ドッグフードももちろん無くて家の残飯を食べさせるのが普通でした。我が家はラーメン屋だったのでスープの出がらしは豚の骨や玉ねぎや人参が入っていて栄養豊富で犬の餌としては良いと思われていました。しかし最近判ったことで、ねぎ類は犬に与えると貧血を引き起こすと知り、それを常食として与えていた我が家は愛犬を自分たちの手で殺してしまったことになる。最近の研究で分かった事とは言え、知識が無いという事は何と情けない事かと思う今日この頃であります。
 中学卒業後は高校へ行く気持ちはさらさらありませんでした。
その頃の親友が中学校を卒業したら憧れのバスガイドになりたいと、いつも休み時間になると夢を見るような眼差しで身振り手ぶりよろしくガイドの真似をしたり歌ったりしてクラスの皆を楽しませるのを見ながら、私もついつい自分の将来をきれいな着物をきてお華や日舞のお稽古に通うお嬢様のような自分を夢見ていたのでした。

 その頃はまだ気がつきませんでしたが私がいつも空想していた姿は母が姉に求め続けたものだったのです。
親に経済力も学歴も無く自分自身も勉強が嫌いで夢中になれるような趣味もなく、親からも諦められている子供の行く道はただ世間の荒波に流されてゆくだけです。 しかし進路を決めなければならない頃になると両親は高校進学を私に義務付けたのでした。 それまでは私の勉強嫌いを諦めの気持ちで居た母まで「お父さんの顔が立たないから高校へ行って」と言うのです。 

 そのわけはこうなのです。
母が一人で私たちを育てていた時に姉をお金のかかる私立の中学校へ行かせる事が出来たのに父がいる今、私が高校へ行かなければ父にかいしょが無いように世間から見られると言うのが母の言い分でした。 私は反抗期の真っ只中でしたので「そう見えるのではく、その通りでしょ、こんな貧乏な中から高校へなんか行きたくない」というと父は「頼むから行ってくれ」と頭を下げるのでした。 そうして「高校へ行ってお父さんのボーナスが出たら褒美として千円上げるから」というのです。 その頃の千円は大金でした、なにしろ菓子パンが10円の時代ですから。
 勉強が嫌いな私に母は諦め顔で何も言いませんでした。
姉は本が好きで父がそれを嬉しく思っていてよく買ってあげていました。 そんな姉に母は「小説本ばかり読む女はろくな者にならない」と言うのです。それは家庭的ではないという意味だったのです。そう言われると姉は夕方になっても小説を読みふけり母が手伝ってと言っても聞こえないふりをして動こうとしないのです。そんな訳で掃除や米とぎ、洗濯はいつも私が手伝わされたので家に居るのが嫌でした。中学校を卒業したら家を出て働きたいと思っていたのです。そしてある日、学校で書いた作文の内容に担任の先生が心配をして母に報告に来たのです。すると母は先生に「ご心配をおかけしました」とたたみに頭が付くほど平身低頭して誤り先生は帰っていきました。まさか作文の内容が母にバレるとは思ってもいなかった私は自分の将来について本当の気持ちを書きました。

 それは、私は養女です、に始まって家が貧乏なので早く家を出たいことや自立して家に迷惑をかけないようになりたいなど、そして生活の手段としてホステスとして働きお稽古ごとを色々やりたい事も書いたのでした。そして作文を母に手渡し先生は帰っていきましたがその後は母の前に正座をさせられ、当然のことながら大変叱られ「女給(当時はまだホステスという言葉はありませんでした)なんて仕事はよほどしっかりしていないと男に騙されてぼろぼろになって捨てられるだけ、特にアンタみたいにボーッとしているのは火を見るより明らか、チョット位男好きのする顔をしているからといって自惚れるんじゃないよ」と言われ私はある決心をしました。
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